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 乙女高原ファンクラブ 公認
乙女高原メールマガジン第431号   2020.2.20.
 発行者:植原 彰(乙女高原のある山梨市牧丘町)
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  ▲▼ もくじ ▼▲
NEW! 0.【ニュースニュース】
NEW! 1.【活動報告】続・乙女高原フォーラム  1月26日(日)
NEW! 2.【活動報告】乙女高原自然観察交流会  2月01日(土)
    3.【活動案内】乙女高原自然観察交流会  3月07日(土)
    4.【活動案内】2019年度総会     3月15日(日)
NEW! 5.【活動案内】乙女高原フェロー
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0.【ニュースニュース】

●1.2月2日、メルマ430号を、うっかり配信してしまい、ご迷惑をおかけしました。須賀さんにチェックしていただき、配信できることになりました。お忙しい中、須賀さんありがとうございました。今回は須賀さんのお話の続編です→1

●2. (再掲)乙女高原ファンクラブ2019年度総会を3月15日(日) 午後2時より、牧丘総合会館(山梨市役所牧丘支所と同じ建物。ファンクラブの世話人会を開催している施設)で開催します。今から予定に入れておいてください。総会後の座談会では、「山梨むかしがたりの会 きしゃごグループ」の木曽川さんらに「むかしがたり」をお願いしました→4
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1.【活動報告】●続・乙女高原フォーラム● 2020年 1月26日(日)

※須賀さんのお話の続きです。

須賀さんの話の全体像は
1 why  なぜ草原とのつながりなのか?
       地域の方々が持っている生活の知恵や知識などの在来知に注目したい。
2 what 草原の何とつながるか 草原利用の歴史と文化
3 how  具体的にどんな方法でつながりなおしていけばいいのか

このうち、「1 why」は前号で紹介。今回は「2 what 草原の何とつながるか」以降のお話です。
文責は植原にあります。


◆草原利用の歴史と文化

●地質年代でみると● 今から6600万年前、ユカタン半島の近くに巨大隕石が衝突し、恐竜が滅びました。それで中生代が終わり、新生代が始まりました。今も新生代です。いろいろなデータから、新生代の前半は、全般的に温暖であったといわれています。後半になって、寒冷化しました。温暖だった時代を古第三紀、寒冷になった時代を新第三紀と呼んでおります。その最後に第四紀という、さらにさらに寒冷化した時代になりました。寒くなったというより、寒暖が極端に繰り返される気候になった時代で、これが現代につながる第四紀です。
 気候変動に関する国際的な政府間組織であるIPCCが定期的に報告書を出していますが、その第5次報告書の中に、新生代を通じた二酸化炭素の推定値のグラフが出ていますが、新生代の初めに上がって、そして下がっています。二酸化炭素の量が多かった時代は気候が温暖であったので、温暖だったことが先か、二酸化炭素の量が先かは、簡単には言えないんですけど、その相関関係は分かっています。さらに、植物の化石などから気候変動の歴史がわかります。
 新生代の前半には、熱帯林が高緯度地方、今の北海道やイギリスなどでも見られたということが化石などからわかっています。後半になると、温帯林が南下し、北極の近くにあったブナ林やナラ林が、寒冷化に伴って温帯まで下がってきました。その時代の後半になって、草原環境が広がりました。このように、地球が寒冷化して温帯林や草原が広がることによって、マルハナバチが北半球で分布を一気に広げました。
 日本列島が形成されたのは新第三紀の中頃で、第四紀になって高山が形成されました。そうやって、地球が寒冷化する歴史に乗っかって、マルハナバチや草原性の植物たちが日本列島に入り込んできました。

 ちなみに、この6000万年の歴史の中で考えると、今の二酸化炭素濃度はかなり低い状態ですので、地球環境でいうと、これから温暖化するということはたいしたことではないと思ってしまうかもしれませんが、そうではありません。現在、地球の温室効果ガスは400ppmを超えていますが、この濃度になったのは過去80万年なかったことなんです。ホモ・サピエンスがアフリカで誕生したのが20万年前ですから、それより前です。人類の誰も体験したことのない濃度になっているということです。ということは、人類が体験したことのない気候状態になりつつあるということです。このまま放っておくと、100年200年で1000ppmを超えるといわれていまして、このあたりが熱帯林に覆われていた時代と同じになります。人類が文明を築き始めたのが7000前からですから、その間、誰も経験したことのないシステムを人類は作りつつあるということです。私たち人類社会のシステムが経験したことのない気候システムを私たちは作りつつあるということですので、地球環境にとっては大したことではないけれども、人間社会にとっては、まったく予想できないことに直面しなければならない可能性があります。

 寒冷化することによってマルハナバチや草原の植物たちが日本列島に入ってきました。第四紀になると氷期と間氷期が繰り返されるわけですが、氷期には日本列島周辺では寒冷で乾燥した気候でしたので、草原が広がります。間氷期や現代も含まれる後氷期は温暖で湿潤な気候になりますので、森林が広がります。

●なぜ草原は残ったか?● 私が持った疑問は「草原はなぜ残ったか?」ということです。かつて、人が田畑を切り拓いて、肥料として草や木を伐っていたので草原ができたということはわかります。謎は別のところにあります。例えばオオルリシジミという草原性のチョウがいますが、日本にしかいない亜種なんです。大陸には別の亜種がいます。1万年以上、どうやってオオルリシジミは生きてきたのか? 縄文時代に草原があったんだろうか? どうやって縄文時代の草原は生きてきたのか?
 他にもキジムシロ、ワレモコウという草、チャマダラセセリというチョウがいますが、これと同じものが中国の温帯草原にもいるそうです。中国の温帯草原にいるものが、長野の開田高原にもいるのはなぜか?
 よく言われているのが、半自然草原は火入れをしたり、採草したり放牧したりすることで維持されていたということです。明治時代には国土の30パ-セント以上が草地だったという人もいますが、ここでは17パーセントという数字を使います。これは黒ボク土という草原性の土壌が国土に占める面積です。その半自然草原が現在では1パーセントに減っています。草原のタイプによって生えている植物も違います。写真の自然草原は高山植物の生える自然草原ですが、そこにはチングルマのような高山植物が生えています。人工草地にはコスモスのように人が植えた植物が生えます。半自然草原にはキキョウのような半自然草原特有の植物がみられます。こういう半自然草原の生態系が1万年間、どうやって生き残ってきたかなんです。
 日本の高地面積と人口を重ね合わせたグラフを見ると、ほぼ重なっていまして、江戸時代には耕地面積と人口が急増します。この時代に刈り敷きという、草を刈ってきて田畑の肥料にするというなりわいが大きく拡大したことが明らかになっています。放牧が日本で始まったのは古墳時代からであると考古学的な資料から言われています。とすると、放牧、草刈以外の草原の維持は火入れしか考えられないのですが、火入れはそれ以前からあったのだろうか?と思ったのです。

●黒ボク土は火入れによって● 1999年に、このことを強く主張する論文が出ました。その後、多くの議論を経て、今ではほぼそうだろうといわれていますが、黒ボク土は縄文時代以降に生成し、長く草地だった場所にできる。その中に微小な炭がたくさん含まれる。火入れが黒ボク土の生成に関与しているということです。かつての土壌学では、黒ボク土が草原土壌だということは認められていましたが、それが人間の火入れとかかわっていることは考えられていませんでした。ここ20年の議論でほぼ定説になりました。黒ボク土が霧ケ峰にもあります。霧ケ峰の北に和田峠があり、この近辺では黒曜石という遺物が出ます。旧石器時代から縄文時代にかけて狩猟につかわれた矢じりの原料として使われていました。日本各地に運ばれていたこともわかっています。矢じりの形が時代によって変わるので、発掘してみると、旧石器時代の黒曜石の矢じりが地面の下のほうから出てきて、その上から縄文時代の黒曜石の矢じりが出てくるわけですが、旧石器時代から縄文時代に変わるところで、土の色も黄土色から黒く変わっています。黄土色なのはローム層、黒いのが黒ボク土です。黒ボク土が火入れによって生成されたとすると、縄文時代に入って火入れが始まったということです。実際に測ってみると、黒い部分の一番下が5000年前、縄文時代中期であることがわかりました。そこから化学成分の変化を見ていくと、連続的に変化していることがわかりました。ここでは縄文時代から連続して野焼きが行われてきたことがわかりました。このころから野焼きが続いてきたから、霧ケ峰は今でも草原なんだということです。
 開田高原では野焼きが今でも行われておりまして、草原のがけを見ると、そこに分厚い黒ボク土があるのがわかります。野焼きをすると夏には草が大きく育って、開田高原ではそれを馬の餌に利用しています。同時に、そこが多様な動植物の生息地になっていて、昆虫の希少種もいます。
 黒ボク土の全国的な分布をすると、古代から近世にかけて放牧地であったところとほぼ重なるということがわかってきました。

●万葉集と草原● 万葉集に野の風景がたくさん出てきます。今朝は万力公園を歩いてきたのですが、万葉集に詠われた植物がたくさんあって、いいなあと思いながらきました。その中に

   春の野にスミレ摘みにと来しわれそ 野をなつかしみ一夜寝にけむ

という山部赤人のうたがありましたが、このような野の風景って万葉集にいっぱい出てきます。ほぼ半自然草原であるといわれています。代表的なものが秋の七草をうたった山上憶良のうたですね。

   秋の野に咲きたる花を 指折り かき数うれば七草の花
   萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花

 ご存じのように尾花はススキです。今でいう朝顔は当時ありません。キキョウのことだといわれています。この中でフジバカマやキキョウは国や地方の絶滅危惧種となっています。クズやナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、キキョウは薬草としても使われました。クズからは葛根湯が作られます。
 柿本人麻呂が草刈りと野焼きと馬を連続して3つうたっているうたがあります。私、大好きなのですが・・・

  ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉の 過ぎにし君が 形見とそ来し

「ま草刈る」は「荒野」の枕言葉だそうですが、文字通りにとると、草刈りをしている野ということです。

  東 の 野に炎(かぎろひ)の立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ 

 このうたは野焼きの風景だ!と思ったのですが、解説書を見ると、そうじゃない、東の空が明け染めてくる様子をうたっているんだというのが定説のようです。江戸時代の国学者の解釈で、それが定着しているのですが、2013年の岩波文庫の解釈が変わっていたんのです。炎は「けぶり」と読んで、実際に野に火を放っているんだという解釈でした。狩猟に伴う火入れをしているんじゃないかということです。

   日並の 皇子の尊の馬並めて み狩立たしし 時は来向かふ

 馬を並べて、狩りを始める、今まさに始めるぞというシーンをうたった歌です。
 3つのうたをつないでみますと、草刈りをしている野原に来て、夜明けに火を入れて、馬に乗って狩りを始める・・・そういうシーンだと読めます。

●中世の神事と草原● そんなことを思わせるような神事が中世の阿蘇で行われていたという研究があります。春に野焼きをして炎によって追い出されてくるイノシシやシカを、馬に乗った武者が弓で射るんです。そうやって焼けた跡の野原に草が生えてくるので、そこを牧つまり馬の放牧地にしたという神事です。中世の阿蘇は阿蘇神社の荘園だったそうです。
 霧ケ峰は諏訪神社の影響が大きいところですが、旧御射山遺跡というのがあって、中世の狩りの神事が行われていたといわれています。ここは当時の文書が残っていませんので、どんな神事であったかはわからないのですが、丘が段状になっていて、ここに桟敷がありまして、そこに東国の侍たちが集まって、流鏑馬のような狩りの神事を見物していたと想像されています。神事で使われたかわらけなどが出土しています。これは私の想像ですが、周りの山に火を放つと、広い八島ヶ原湿原に動物たちが出てきて、それを馬で追いかけてきて、桟敷席のちょうど前の狭い通路のようになっているところで弓で殺す、その神事を桟敷で見物したのではないかと想像しています。

●近世の刈り敷● 中世のことは文書がなく、わからないのですが、近世になるといろいろなことがわかってきて、「善光寺道名所図会」という古文書の中に、背後の里山から草や木を刈って、田畑に入れて、肥料として使っている様子が描かれています。これを刈り敷というのですが、このように草を肥料として使う農業が江戸時代には全盛期を迎えます。研究によっては田畑の5倍から10倍の面積の草山が必要であったという人もいます。別の研究ですが、当時の村落の周辺の山の5割とか7割は草山や柴山、つまり高い木がほとんどない山だったといわれています。その結果として秋の七草がみられるような草原があったわけですし、馬が放たれているところではレンゲツツジがあったりしました。

●明治以降● 江戸の終わりになると、西洋から外国人が来るようになりまして、書き残しているものがあるのですけれど、たとえばアーネスト・サトウは日記の中でこう書いています。

 村を出てからもしばらく道に沿って家が 並んでいたが、それを過ぎると一本の 木もない草深い荒地を通り抜ける。 点々と茂みがあり、鐘のような形をした 桔梗の花が咲いているところは真青に 見えた。
(1878(明治2)年の塩尻 桔梗ヶ原 アーネスト・サトウ「日本旅行日記」庄田元男訳)

 一面真っ青になるくらいキキョウが咲いている草原だったそうです。軽井沢の当時の写真を見ても、当時に比べ、今は木がいっぱい生えていることがわかります。当時は草原でした。
 木曽ですと、春に野焼きをして、秋に草刈りをして、それを餌として在来馬を飼うという生活をしていたのですが、その結果として半自然草原が保たれてきました。盆棚に盆花を供えるという風習もありました。

 このように20世紀中ごろまでは人の暮らしを結びついた半自然草原があったわけですが、それが消えつつあります。長野県のレッドリストの2002年版と2014年版を比べて、絶滅の主要因がなんであるかを調査集計してみたら、2002年では第2の危機(里地里山などの手入れ不足による自然の質の低下)の割合が18%でしたが、2014年には34%と、割合が高まっています。それだけ、危機が進行しつつあるということです。

ここまでの話をまとめます。

What? 草原の何とつながるか?
2. 草原利用の歴史と文化

半自然草原:
 氷期の植物・昆虫の避難所
 縄文時代からつづく(黒ボク土)
 火入れ・放牧・草刈りで維持
 絶滅のおそれのある種が多い

草原の文化:
 狩り場・放牧地・採草地
 カヤ、まぐさ、肥料、盆花、薬草
 和歌(秋の七草など)、浮世絵

 草原の保全が人の暮らしや文化に結び付いていることを意識するかしないかで、草原の価値の感じ方って違ってくるのではないかと思います。それを生かした形での草原とのつながり方を、これから考えられないかなと思っています。


◆草原とつながり直す

●霧ケ峰の場合● 2005年、霧ケ峰には一面のオオバギボウシが咲き乱れている場所がありました。トラマルハナバチやウスリーマルハナバチが来ていました。草原の生物多様性ってすごいなと意識し始めたころでした。今はこんなに咲いている様子は見られません。ニッコウキスゲも同様です。いっぱい咲いていました。「こんなのもう2度と見られないんじゃないか」とおっしゃる方もいて、「不吉なことをおっしゃるなあ」と思いましたが、本当になってしまいました。ニッコウキスゲにもウスリーマルハナバチが来ます。

 霧ケ峰は黒ボク土で、縄文時代から火入れが行われていましたし、中世には狩りの神事が行われていました。霧ケ峰に来られる方の多くはマイカーや観光バスで来て、広々とした空間を楽しまれて、帰っていきます。どんな植物が生えているかとか、どんな歴史があってとかについては、情報が十分伝わっていない、発信も十分ではないところがあります。そこで、それらを伝えたいなあと思っています。
 火入れについては、ずっと行ってきたので続けたいと思っている人が多くて、中断していた野焼きを2000年代の初めに復活させていたんです。が、2013年の火入れで、大延焼を起こしてしまい、10ヘクタールの予定が220ヘクタールも焼いてしまいました。市役所が音頭をとってやっていたので、もうやめましょうということになってしまいました。
 燃えたことによって、花は復活するよねと期待しました。実際、燃えたところでは青々と草が伸びてきたんです。でも、花は減ってきました。それは野焼きのせいだけではなく、その前からシカの増加もあったからです。

 シカの食害が深刻化するとともに、2007年ころから観光客も減ってきました。霧ケ峰の草原が維持されてきたのは観光資源としての価値が高いからです。ですから、観光資源としての草原を守ろうという発想を生かす必要があると考え、防鹿柵でお花を守ろうという活動が地元の皆様方の手で急速に拡大しました。2007年に研究所で試験的に作った総延長50メートルの柵が最初でしたが、その後さまざまな方々の手で2018年には総延長15キロメートルにまでなりました。柵の中では花がびっしり咲いています。ニッコウキスゲが多くなったことはわかっていましたが、他の植物や他の動物も含めて、生物多様性がちゃんと戻っていているかどうかはわかっていませんでした。
 そこで東京大学や神奈川大学、兵庫県立大学、森林総合研究所といった方々と共同研究しました。柵の中と外を、何か所かで定量的に調べました。その結果は乙女高原と同じです。柵を作ると花の多様性・量・種類数・絶滅危惧種の種類数、チョウ・マルハナバチの種数・個体数、いずれも圧倒的に柵の中が大きかったです。こういうことがわかりましたので、観光資源としても使える!と、さらに柵作りが広がりつつあります。

 こういった取り組みを観光客の方々はほとんど知らないので、それをなんとかしたいと思いました。価値を可視化しようと、本年度プロジェクトを立ち上げました。具体的には、観光客の皆さんに伝える媒体…マップですとかウェブサイト…を作ろうということですが、現地でワークショップをしました。研究者ばかりでなく、観光協会の方や地元のビジターセンターの方、ガイドさん、外国の方も観光に来られますのでブラジルの方・マレーシアの方にも一緒に歩いてもらい、どういうところが見どころになるのか、歩きながら話し合い、さらに室内でも話し合いました。
 また、大延焼した場所とは違って、地元の人々が小規模ですが野焼きを続けてこられた場所があって、そこにいい草原が残っているのですが、高齢化が進んで担い手がいなくなったことから野焼きを止めた場所があります。現状だとまだいい状態なので、なんとかならないかと話し合っています。
 ガイドマップを作っているのですが、今までは花の情報とコースタイムしか入っていませんでしたが、火入れや黒ボク土、狩猟神事や遺跡、花々の種類、防鹿柵の効果も入れ込みました。英語版と日本語版です。上高地にも外国人は行くのですが、上高地は見ただけで分かる原生的な自然です。一方、霧ケ峰は歴史やどうやって保全していくのかという情報まであることによって、興味を持ってもらえると思っています。


How? どう草原とつながるか?
3. 草原とつながり直す ①霧ヶ峰
長い歴史: 縄文時代からつづく火入れ    中世の狩猟神事とその遺跡
近年の課題:火入れの中止          シカのよる花の食害
新しい動き:防鹿柵による植物と昆虫の再生  ガイドマップで価値を可視化


●開田高原の場合● 開田高原全体で5ヘクタールくらいの草原しかありません。それが何か所にも分かれています。一つ一つはとても小さいです。その一つの草原には超希少種が何種類かあります。保全の方法は2年に一度の野焼きと草刈りです。そうすると、夏にたくさんの花が咲いて、刈った草は木曽馬の飼料になります。人々の暮らしと結びついて、このような環境が維持されてきたことが聞き取りによりわかってきて、県条例による保護区ができています。保護区は0.5ヘクタールしかありません。

 ここにはチャマダラセセリがいます。このチョウは外へ出て分散しようとする習性を持っています。飛び出していっても、飛び出した先に生息環境がないので、減ってきています。
 ここでチャマダラセセリが生き残っているのは2年に一度の火入れと関係していると考えられています。チャマダラセセリは枯草の中に蛹が潜んで冬を越すのですが、これでは燃えてしまいます。火が入ったあとに、ミツバツチグリやキジムシロのように地面すれすれに出てくる草の葉の裏に卵を産みます。おそらく外へと分散して野焼きがなかったところで蛹がかえって、燃えたところに飛んできて卵を産んでいるのだと研究者は考えています。伝統的な草地管理と結びついて生き残ってきた生き物だといえます。
 ですから、保護区であろうと火入れや採草は続けています。草刈りはやる目的がなくなりつつありますので、農家だけではできず、役場の職員や私たちがお手伝いをしています。かつては手鎌ですが、今は機械で刈っています。

 これだけでは守れないものがあるなあと感じています。木曽馬という在来馬があり、「木曽馬の里」という施設で40頭ほどが飼育されています。ここでは、外から買った草を与えています。地域の野草で飼っているわけではないです。施設の職員の労働ではとても無理です。木曽馬は地域のシンボルでもあり、役場でも重要視していますが、開田高原に来る観光客のほとんどは木曽馬がここにいることを知らないです。木曽馬の施設が国道から少し入ったところにあるからです。ですが、ここに木曽馬・希少種が残っているのは伝統的な形で草刈りをし、草を馬にやるという生活が何百年もつながってやってきたからです。そう考えたとき、なんとか刈った草を馬にやれないかなと思いました。
 開田高原では今でも道端に馬頭観音がたくさんあります。かつては馬をとても大切に飼っていました。同じ家の中に、馬も人も暮らしていました。いろりの後ろ側に馬がいたのです。そういう生活が昭和30年代まではあったそうです。その後、家も改修されて、私ぐらいの大人はもう当時の生活がわかりません。地域の文化が記憶の中にだけあって、消えつつあります。

 だけど、今でも野焼きはしているんです。けっこういい草原が残っています。毎年焼いています。毎年焼いているので、チャマダラセセリはおそらく焼けて死んでいます。毎年焼いているところが開田高原の中にいっぱいあり、地元集落で火入れをしています。昭和30年代には約5,000haの草原があり、それは当時の開田村の三分の一の面積です。約700頭の木曽馬が飼われていました。 現在は草原 5.2ha、馬は 約40頭です。ほとんどが施設で飼われていますが、個人で飼われている人もいます。その方々は生産の道具としてつかっているわけではなく、ただ馬が好きで飼われています。
 草原の維持再生と木曽馬の文化の保存を結び付けられないかと考えました。2018年にその相談を始めました。若い人たち・よそ者が多かったです。

 火入れの見学もさせていただきました。イチイの枝で残った火をたたいて消します。お年寄りは火をつけるのに、枯草を束ねてやっています。
 火の入れ方にも作法がありました。斜面ですので、うまく火が収まるようにやっています。まず、斜面の一番上を、風下から風上に向けて焼きます。次に風下を上から下に、次に風上を上から下に、最後に下を両側から焼きます。先に焼いたところまで炎が走ると、そこで火が消えていくという寸法です。合理的ですが、地形によって風向きが変わりますし、火を入れると気流で風向きが変わります。相当経験がないと上手にできないなと思いました。一番年配のお年寄りが司令官になっています。知識だけ残っていて、草だけ焼いているという状況です。焼いた跡は、枯草が取り除かれますから、いろんな植物が出てきます。たくさんの花が咲きます。
 隔年の火入れ・採草に戻したところは多様性が高まり、草丈が高くなりました。火入れだけをやっていると草丈は高くなります。栄養分が多くなりすぎるのかもしれません。その結果として花の種類は減ります。草刈りだけをやっているところは、何回も刈りますから草丈は低くなり、花の数は少なくなります。ちょうど80センチくらいの草丈で多様性が高くなることがわかっていまして、かつ、そういうところでは昆虫の多様性も高いことがわかりました。伝統的な維持管理方法を導入することが、生物多様性にとってもいいことがわかりました。
 3か所で「隔年の草刈り・火入れ」を行うことにしました。県の保護区はコアエリアとして、できるだけ人が立ち入らない状況で保護していこう、その周りに何か所か伝統的な草地管理を導入し、秋の七草などがたくさん見られる環境を作り、開田高原を訪れる人々に楽しんでもらえるようにしようということにし、ツーリズムの観点も考慮しながら場所選びをしました。

 草刈りの仕方については知っているお年寄りから学びました。こういったお年寄りを我々は師匠をお呼びしています。身のこなし、草の扱いなど、見ているとため息が出そうです。草を刈って、束ねて、立てて、干すわけですが、身に付けた技として持っていらっしゃいました。天候によって草の湿り気が違ってきます。刈った後、何日も晴天が続く場合は、穂先を斜面下に向けて干します。こうすると、草の露が下に落ちやすくなります。晴天が見込めない場合は、束ねて立てて干して、早めに取り込みます。そして、冬の干し草には使わず、ある程度青いまま馬に与えます。草刈り後の処理の仕方を、このようにその後の天候を考えながら調整しています。
 実際に軽トラで草を運んで「木曽馬の里」で馬に与えました。馬たちは今は小さいころから野草を食べ慣れていないので、おなかをこわしたりすることもあるそうです。植物の中には、食べるとダメなやつもあり、小さいころから食べていれば分かって、避けて食べるそうですが、慣れてないとそれも分からないので、飼育員の人たちと相談しながら草のやり方を考えています。
 やっていると、とにかく楽しいんですね。ツーリズムの資源としても使えると私は思っています。役場が国道ぞいに馬の放牧地を作りました。そうしたら、観光客が「馬がいる!」って止まるんです。車が行列作って路駐して、写真を撮っていました。

 昔のほし草づくりも師匠に学んで行いました。「にご」といいます。干してから、小屋に入れ、冬の間のまぐさや敷草に使います。始めて2年目です。やればできるという実感が持てています。やっている人は十数人程度なんですが、やっている人はみんな手ごたえを感じているし、参加している人が多様です。移住者、お年寄り、馬を飼いたい人・・・。背景が違う人が同じ目的で一緒に盛り上がるというところが、普通の自然保護にはないつながりだなと思います。
 昔は野の花を使った生け花も普通にあったそうなので、京都の池坊の生け花の先生を招いて、生け花体験も行いました。希少種は採らないようにして、たくさんあるアヤメや外来種のキショウブなどを使いました。

 こういうことを考える時代の背景をもう一回考えましょう。

20世紀: 自然を開発から守る   人口増 工業化    高度経済成長 自然保護
21世紀: 自然と文化をつなぎ直す 人口減 サービス化  持続可能性 価値のシェア

 つなぎ直すことををさらに地域づくりにつなげていくことを考えておりまして、デザインという発想がヒントになるかなと考えております。デザインという言葉は最近広く使われるようになりましたが、形をデザインする、機能をデザインするというのが本来の意味です。そういった多様なデザインに共通する要素として、体験の質を高めるということがあります。その発想を広げて、社会問題の解決などにもデザインという言葉が最近使われるようになりました。
 もののデザインを掘り下げて考えてみますと、素材があってイメージがあって記号があります。これら全部が結びついたものがデザインです。そこが芸術作品と違うところかなと思っています。服のデザインでいうと、木綿とか化学繊維とかいう素材があって、色とか手触りとか形とかカジュアル感とか高級感といったイメージがあって、それをブランドにする、そのブランド名が記号です。それによって、使ってみたいといった思いが高まるとしたら、それがデザインです。その考え方を地域づくりにも応用できないかなということです。例えば、馬のある地域をデザインして、実際にそこに行けば馬が見られる、体験活動ができるといったことで、文化を可視化する、スト-リー化することができれば、「開田高原は馬と野と花の文化」という地域デザインができると思います。そんな考え方を提案して、木曽町の役場の人たちとグランドデザインを考えています。

How? どう草原とつながるか?
3. 草原とつながり直す ②開田高原
伝統的採草地: 隔年で火入れと採草        希少な植物・昆虫が多い
新しい動き:  伝統的な草地管理を学び・再生   木曽馬の見える開田高原づくり
地域デザイン: 馬と野の花の文化         可視化・体験化・ストーリー化


 一地域のことだけでなく、もっと社会全体に広げられる発想につなげられればと思っています。
 ヨーロッパでは数十年前から田園回帰が進んできました。農村が大きく変わりました。その中で意識されてきたことは、伝統文化を単なる伝統文化で終わらせるのでなく、多くの市民に開放して現代に通用する文化活動にするということです。ヨーロッパでは、観光地として小都市や農村に、イタリアの場合はアグリツーリズモに向かっていきました。例えばスローフード運動はイタリア発祥の食文化で、伝統的な食文化を再生しています。ワインなど伝統的なやり方で作ったものを、農村に行って民宿に泊まって味わう、そういう新しい観光が生まれつつあります。そういった形で農村の地域づくりにつなげることができる、日本でもできると思います。
 その社会背景として、日本でも「もの」は足りているから、別のことで人生の価値を見出したいという意識の変化があります。

 まとめです。
草原: 体験(コト)の価値を生む場 つながりを編み直す場
 ・自然と文化のつながり
 ・過去・現在・未来のつながり
 ・農村と都市のつながり

 最後にご紹介したい言葉があります。渡辺 靖さんの『〈文化〉を捉え直す』岩波新書(2015)の中にある言葉で“対外発信の究極の目的は 「コミュニティづくり」である”という言葉です。
そういう機会を提供する場として草原があると考えられます。
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2.【活動報告】 ●乙女高原自然観察交流会● 2020年02月01日(土)

※乙女高原案内人の山本さんがレポートを書いてくださいました。

※ブログには写真付きでこの記事が載せてあまりす。ぜひご覧ください。

 今日は朝からよく晴れて青空が広がっています。牧丘の道の駅に集まったのは6人です。乙女高原の雪はどんなだろうといいなが身支度をして、途中ヤマアカガエル卵塊調査地の様子を見ていこうと話し合ってから、2台の車に分乗して出発です。

 最初の調査地では水は凍っていなくて流れていました。周りの地面は固くなくやわらかで、春の訪れを感じます。次のカエル池に立ち寄ると、シジュウカラやヒガラが何羽か飛び立っていきました。池にはうっすらと氷が張っていましたが、暖かいので帰る頃には融けてしまうだろうといった様相ですが、やはりまだ卵塊は見られません。さらに進んだ林道沿いでホオジロやコガラも見かけました。

 林道には一部を除いて雪は無く、乙女高原に着いてみると草原の半分には雪がありませんでした。雪のない草刈り後の草地にはハイゴケなどの緑が目立ちます。カサゴケの仲間もありますが、オオカサゴケなのかカサゴケなのか、それともカサゴケモドキでしょうか。
 ミズナラの樹上のミノゴケはナガエミノゴケかもということで、いったん外しておくことになりました。同定してから取り付け直すことにします。ヒムロゴケと名前のついているコケも別物のように思われます。コケの同定は肉眼では判断できず、ルーペで覗いて見ても難しいです。
 雪の残っている場所にいくと、白い雪の上を動き回っているものがいました。黒いクモでした。こんな雪の上を走りまわったり時々跳ねたりしているこの黒いクモは何者で、何で雪の上をと不思議です。
 雪の残っている林の中を歩いて1月の観察会で見たというオオアカゲラがドラミングしていたという場所に行きました。木枝はかなりつつかれていて、雪の上に木くずが一部残っていました。ということは、雪の降る前につついた木くずは雪に埋もれ、その後雪が降ったあとにも来てつついたということです。かなりたくさんの食痕からしても何度もやってきたということでしょう。エサの虫を取り出すためかと食痕を観察して見ると、はたして虫の穴も見つかりました。やはりエサを見つけるためだったということです。
 カケスの声が聞こえました。ほかにも何かの鳥がいる、どこどこといって見た先の大きなモミの大木が枯れているのがわかりました。以前台風で上半分が折れてしまった木で、その後全体が枯れてしまったのでしょう。遷移の一端をうかがわせるものを感じました。
 近づいてみると、無数の小さな穴が列になってあいていました。鳥がつついた穴か、虫が作った穴か、何者があけた穴だろうと近づくと、セミの死骸が見つかりました。すると、あれがいると嬌声があがりました。ここ何年か湿地帯のミヤマイボタの木で見つかっているゾンビセミと呼んでいたものと同じものを見つけて叫んだ声だったのです。口吻が樹幹に突き刺さって顔の部分だけが残っているものです。セミの形が残っている死骸も口吻を刺しているのかいないのかデジカメで撮って拡大してみたり、ルーペで覗いてみたりと思わぬ観察会になりました。
 この先のミズナラにでも見つかり、さらに富士山展望地のズミでも見つかりました。これらすべて一人の人が見つけており、敬服です。この日は完全にセミハンターの目になっていたと言っていいでしょう。
 いままではミヤマイボタの木との関連性があるのだろうかとか、こんなことになるのは菌によってゾンビ化したのではないだろうかとか空想していましたが、これだけ見つかるとセミの習性として、たくさんのセミの中でこのような最期を迎えるものがあるのではないかといった結論になりました。真相はわかりません。まだまだ最後の声が根こそぎ拾えてないと思います。

 富士山がよく見えていました。お昼になり、ロッジに戻ってランチをとりながらおしゃべりするのも楽しいです。ヤチボウズを見てから帰ろうと、車を草原わきの駐車場に移し、山梨ロータリークラブが寄贈してくれたヤチボウズの看板のある場所へ行ってみました。雪はなくヤチボウズがよく見えていました。がここで、疑問です。
 草刈り以降、何気なく看板の所へ行けるのですが、夏になって草花が繁茂したら、ヤチボウズを見に行くのに踏み荒らしてしまうことに気づいたのです。看板も出して見に来てもらうことにしたのなら踏み圧を最小限にして貴重な植生を維持できるように遊歩道を設けなければいけないのではないでしょうか。それに今ある遊歩道は駐車場から降りるところが急斜面で、階段状に直してもらったばかりなのにもう荒れてきています。階段のところが大雨が降ると道路や駐車場からの水が流れ落ちる場所になっているのです。
 ではどのような遊歩道にするのか、いろんな案がでましたが、5月の遊歩道つくりまでに県や市と話し合う課題となりました。こういったことに気づいて話し合うことができたことも観察交流会の意義なのかなと思いました。
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3.【活動案内】 ●乙女高原自然観察交流会● 2020年03月07日(土)

・日  時 03月07日(土)午前9時~午後3時ころ (小雨決行)
・集  合 道の駅 花かげの郷まきおか 9時
・持 ち 物 弁当・飲み物・雨具 その他、あれば観察用具


  ■乙女高原観察交流会■
●乙女高原ファンクラブとしての行事でなく、参加者各自の自主的活動として行うもので、活動に伴う旅費や飲食、傷害保険などすべて自己責任となります。
●途中からの参加や、午前中だけの参加など自由ですが、解散時間の目安は、現地3時、道の駅3時半とします。
●雨天の場合などは現地には行かず、道の駅での交流会にしたり、早めに散会するなど、参加者各自の意思で決めてもらいます。
●参加者は、乙女高原ファンクラブのメルマガメンバーとしますが、お知り合いを同行されることは自由です。
●乙女高原観察を通した交流目的のため、参加者間で情報を共有できるように、乙女高原ファンクラブ世話人会の了承のもと、メルマガなどを利用させていただきます。

※今年度の予定
済①04月06日(土)集合:09:00・道の駅  兼:ヤマアカガエル産卵調査
済②05月12日(日)集合:13:00・乙女高原 兼:スミレ観察会
済③06月01日(土)集合:08:30・道の駅  兼:黄色いスミレ観察会
済④07月06日(土)集合:10:00・乙女高原 兼:谷地坊主観察会
済⑤08月03日(土)集合:10:00・乙女高原 兼:マルハナバチ調べ隊
済⑥09月07日(土)集合:10:00・乙女高原 兼:マルハナバチ調べ隊
済⑦10月05日(土)集合:09:00・道の駅
済⑧11月02日(土)集合:09:00・道の駅
済⑨12月07日(土)集合:09:00・道の駅  氷華がいっぱいみられました。
   【2020年】
済⑩01月04日(土)集合:09:00・道の駅 冬芽の観察をしました。
済⑪02月01日(土)集合:09:00・道の駅  セミのゾンビが見られました。
 ⑫03月07日(土)集合:09:00・道の駅
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4.【活動案内】●2019年度総会●    3月15日(日)

日 時 3月15日(日)午後2時~(準備は1時半から)
場 所 牧丘総合会館(山梨市役所牧丘支所)2階 
次 第
 1.開会のことば
 2.代表世話人あいさつ
 3.議 事
  ①2019年度活動報告
  ②2019年度収支決算報告
  ③会計監査報告
  ④2020年度活動計画案
  ⑤2020年度収支予算案
 4.その他
 5.閉会のことば

※座談会は、「山梨むかしがたりの会 きしゃごグループ」の木曽川さんに「むかしがたり」をお願いしました。「焼山峠の子授け地蔵」「甲斐の湖」「笛吹権三郎」の3つのお話の予定です。
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5.【活動案内】●乙女高原フェロー●

 乙女高原ファンクラブの活動(※)に参加してスタンプ10個集めると「乙女高原フェロー」と認められ、乙女高原フォーラムで記念品が贈呈されます。
乙女高原ファンクラブ会員がこの奨励制度に応募するには「フェロー制度参加証」を発行してもらい、裏面に「乙女高原スタンプ」を押してもらうことが必要です。言ってみれば、スタンプ・カードです。

フェロー制度参加証の有効期間は発行日から3年間です。

参加証発行日以前に参加した活動については、2017年4月1日以降の活動に限り、かつ、発行日から過去1年間に遡り有効です。

※乙女高原ファンクラブの活動
・乙女高原フォーラムに参加すること(必須 ただし中学生以下は必須としない)
・遊歩道作りに参加すること(必須 ただし中学生以下は必須としない)
・草刈りに参加すること(必須 ただし中学生以下は必須としない)
・世話人会に参加すること
・スミレ観察会に参加すること
・マルハナバチ調べ隊に参加すること
・ヤマアカガエル産卵調査に参加すること
・自然観察交流会に参加すること

○メールマガジンや会報、ブログでお知らせした活動で、重複して参加できます。
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