日下部あかりの史料館

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ご案内
『山梨市フィールドミュージアム日下部地区ガイドブック』より


 六坪のプレハブ小屋から始まった手作りの建物の木材の大半は、間伐材の丸太か解体屋さんから貰った古材。日下部あかりの史料館_外観1
 門や本館の庇の軒下が、旧東山梨郡役所門脇灯や、旧七里銀行(現 山梨中央銀行)日下部支店玄関灯、小原旧桜通りの街灯等の街灯、吊り灯篭など。中庭が、辻行灯、石灯籠、鉄灯籠、鵜飼の篝火、消防龍吐水など。玄関の間が結び灯台から鼠短檠、行灯、無尽灯までの種油の灯火器。西の間が囲炉裏、ひで鉢、火鉢など松や薪や竹などを灯した灯火器(?)と、舞錐や火打ちなどの火起こしの道具と、台湾・韓国などアジアの灯火器。二階が安田明神神前提灯や、旧日下部郵便局電報配達用弓張長提灯、明珍燭台などの提灯や燭台と、貞明皇后御用係吉田鞆子の拝領品。日下部あかりの史料館_外観2
 北の間が、雪洞手燭、織部南蛮人燭台、短檠、小灯など夜の茶会用の灯火器。南の間がカンテラ、ランプなど石油を灯す灯火器と、アセチレン灯やガス灯などガスを灯す灯火器と、エジソン電球などの電灯。そして、南東の間は石油ランプや電灯を光源とする幻灯機。
 歴史的には縄文時代から昭和二十年まで。ここ数年、雑誌やホームページで当史料館が紹介され、市内の人より、むしろ県外からの来館者の方が増えている。


 入場無料。 要予約 0553-22-4323

HR


日下部の地名と歴史


 日下部の地名は、正倉院御物中、和銅七年(七〇八年)十月に貢納された(あさぎぬ)の墨書銘に「甲斐国山梨郡可美里日下部■■■■■一匹」とあることに由来する。
 日下部の起こりは、雄略天皇の皇后草香幡姫の名を冠して全国に設置された名代である。
 日下部は徳川時代、小原村西分、小原村東分、七日市場村、下井尻村の4ヶ村であった。明治8年2月、上記4ヶ村は合併して日下部村となる。昭和7年10月町制施行。同29年7月、日下部町は加納岩町、八幡村、山梨村、日川村、後屋敷村、岩手村と合併して、山梨市となる。平成17年3月、牧丘町、三富村と合併して現在に至る。
 地区内の七日市場が、かつての日下部氏の私有地とみられ、そこにある七日子神社は地元では貢明神とも呼ばれ、飛鳥時代から平安時代までの宮中の産養(うぶやしない)の儀には、そのあたりの御料田からの貢米が用いられた。
境内には俊頼の「君が代は七彦の粥七かへり祝ふことばにあへざらめやは」(尾上八郎揮毫)の歌碑が建立されており、「七彦や君が貢の寄り来るは差出の磯の波のうねうね」「貢せしその甲斐ありて七彦の今も絶えせぬ神の端垣」などの古い歌もある。 なお、七日子粥の行事は、日下部地区フィールドミュージアムの一環として平成十七年から復活し、かつての御料田で、古代米の栽培を行ない、新嘗祭の日には七彦粥を炊き、参詣者にふるまっている。
 神社の南東二キロ山梨北中学校(旧 日下部中学校)敷地内の県指定「日下部上代集落遺跡」からは、革帯の飾り金具、「王」と記された墨書土器、火打ち鎌などが出土し、中央との関わりを示している。
 かつての中央銀行日下部支店、日下部記念病院、日下部警察署、日下部保健所等は、現在他地区に移転したが、今も日下部の名を冠している。また、現在のJR山梨市駅も加納岩地区に設置されたが「日下部駅」と称していた。
山梨市駅前には、「日下部駅にて、
 友の汽車われらの汽車と窓ならび 暮れたる山に言ふ別れかな 鉄寛
 いにしへの差出の磯を破らじと笛吹川の身を曲ぐるかな 晶子」
の鴛鴦歌碑が建っている。
なお、笛吹川西岸の窪八幡神社(重文)、差出の磯(「しほのやま差出の磯に住む千鳥 君がみ代をば八千代とぞ鳴く」の歌で知られ、かつては都人のあこがれの地であった賀歌の歌枕)、万力林(日本の森林百選)などを含めた一帯は、昭和60年に「やまなしの歴史文化公園『日下部の里』」として県指定を受けている。


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