寄稿 『毎日新聞』  2000年7月11日(火) 夕刊記事


  英訳された『きけ わだつみのこえ』         

―― 世界への「平和の発信」として ――                   

                                                             岡田 裕之
                                                             日本戦没学生記念会
                                                              (わだつみ会) 理事長


  6月末、アメリカのスクラントン大学から日本戦没学生記念会(わだつみ会)編、『新版・きけ わだつみのこえ』(岩波文庫、1995年)の英訳 "Listen to the Voices from the Sea" が刊行された。訳者は同大教授、社会人類学者山内みどりさんと同僚の英文学者J.クィン氏である。

  本書の翻訳では50年代に、フランス語版、ドイツ語版、英語版がそれぞれ刊行されたが、いずれも抄訳であり旧版(1949年)の翻訳であった。わだつみ会は95年、旧版を大幅に増補して新版を編集したので今回の英訳本は初めての全訳で新しい内容のものである。

  今ここに、半世紀前、太平洋を挟んで激闘をくりかえした相手国アメリカにおいて、平和と自由を強く望みながら戦死した日本の学徒兵の記録が全訳され広く読まれることになったのはまことに喜ばしい。

  訳者の山内さんの兄は出陣学徒だったし、高等女学校時代の友人の兄の多くが戦死した。訳者には、防空頭巾に身を固め幾度も防空壕へ逃げ込んだ記憶が、鮮やかに残っている。山内さんはアメリカで45年の研究生活を過ごしたが、その間、多くのアメリカ人が、特攻で死んだ「カミカゼ」飛行士は、ただ命令に従って死んだだけの精神なきロボットに過ぎない、と考えているのを知った。訳者はこれを悲しく思い、戦死した日本人もまた戦争に苦しみ悩み、平和を期待していた人々であったという事実をぜひ伝えねばならない、とあらためて決意した。そして6年間を費やして完成したのが、この翻訳である。

  本書『きけ わだつみのこえ』の日本における高い評価のゆえんを考えると、この書物が、戦前の「大日本帝国」から戦後の「平和と人権の新生日本」への、価値転換を促した重要な思想の書であったためであることが分かる。この「手記」を遺した学徒兵の多くは、戦争に疑問を抱き、自由と学問文化にあこがれながら、しかも祖国の要請に従って戦死した。この死は繰り返してはならない悲劇だった。

  ところで『きけ わだつみのこえ』は、学徒兵が公表を意図した著作ではなく、ほとんどが密かに記した日記であり、検閲をかすめた書簡であり、紙片に書き留めた断想であって、それら(74名分)を集めて編集したものである。このため忠実な翻訳はとくに難しい。そこには社会科学による冷静な分析があるかと思うと、感情あふれる詩歌が続き、思弁的な哲学と並んで、軍隊の日常訓練と実戦の描写のうちに軍隊の批判、戦争の批判が仄めかされる。底本(岩波文庫版、第8刷)でも日本人読者向けに多くの注記がつけられているが、本書をアメリカ人に理解してもらうのはなかなか容易でない。

  そこで訳者は随所に訳注を追加して理解が得られるように努める。たとえば、訳注は仏教慣習から短歌、俳句、軍隊数え歌にまでおよぶ。また、手記の本文はときに迷い、ときに反復し、低徊して晦渋になる。訳者はここで原文に忠実でありつつも、思い切って適切な意訳を選ぶ。こうした訳者の工夫により、約 360ページの全文は、原文が論理的なところでは一気に読ませ、死生をさまよう思考の迷いには学徒兵の苦悩を滲ませる英文となっている。

  今回の翻訳にもささいな疑問や欠点は残るにしても、本訳書は50年代の仏独英の抄訳とは比較にならない、充実し熱意にあふれた翻訳である。たとえば、田辺利宏の従軍詩は格調高く訳されているし、木村久夫の遺書は戦争にいたる経過から反省、再生日本への希望、家族への惜別が、圧縮された切迫感そのままに英文に移されている。大学生には自訳を試みながら原典と英訳を対比することをお勧めしたい。

  本書の最初の外国語訳者、フランスのジャーナリスト、J・ラルテギは、朝鮮戦争の従軍記者として来日し、偶然の機会からこの『きけ わだつみのこえ』が当時の日本学生の座右の書であることを知り、54年に仏訳を果たした。ついで彼は 55年に自分が編集した『全世界戦没学徒の手紙』を、この抄訳の「第二部」として加え、69年に仏訳新版『わだつみのこえ Ces voix qui nous viennent de la mer』に再編し、世界に反戦を訴える。こうして勝敗にかかわりなく戦没学生、青年の悲劇を繰り返すなという《わだつみ運動》は冷戦下に、いわば国際的な広がりを獲得したのであった。

  この英語完訳が、日本から世界に向けてのささやかな"平和の発信"となることを期待する。
                        (おかだ・ひろゆき  日本戦没学生記念会理事長)

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*同書の問い合わせは〒162-0822東京都新宿区下宮比町2番28の431号の日本戦没学生記念会(03・3269・8071)へ。東京・日本橋の丸善日本橋本店での売価は 4,580円。


『毎日新聞』(夕刊) 2000年7月11日(火曜日) 東京本社2版 p.6

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