メッセージ わだつみ会 8・15集会   2000年8月15日 ◇ 機関誌『わだつみのこえ』113号所収



英訳『きけ わだつみのこえ』の上梓にあたって  

山内 みどり (訳者)
スクラントン大学教授  

  あの悲惨な戦争のあと暫くして『はるかなる山河に』が出版された。それを流れる涙をとめることも出来ないで通読し、いまさらながら優秀な大学生が戦争の犠牲になられたことを心から惜しんだことを忘れることができない。

  それから半世紀以上経った今も、アメリカでは依然として特攻隊の人たちのことをまるでロボットのように考えている人が多い。そういうことを聞くたびに、私は口惜しいやら悲しいやらで、一生懸命説明しようとするけれど、たいした効果はなく、また旧来の日本人に対する偏見は今も続き、日本の近代史、経済大国としての成功までも、日本人は上司の命令通りロボットのように働いていると見て、もちろん人間性を見ないだけでなく、批判的な知性もなく、まるで機械のように働く日本人を頭に描いている人がとても多い。私の学生の一人一人が親日家になってくれるけれどその数は限られている。私の過去 50年のアメリカでの大学生活を通して、全く残念に思うのは、今のアメリカ人の日本人に対する考えが昔とほとんど変わっていないということである。

  アメリカの人たちに『はるかなる山河に』を読んでもらいたいと思っても、残念ながら英訳がないどころか本自体も絶版ということなので、それでは『きけ わだつみのこえ』を訳してみようかと思い、東京女専(現東京家政大学)時代からの親友の小川富美恵女史にお願いして「わだつみ会」の方々にお会いすることが出来たのが事のはじまりである。

  この会との交流により、原本の改訂版が準備されていることを知り、その後(1995年12月)これが『新版 きけ わだつみのこえ』として岩波文庫で刊行されたので、それに切りかえて訳稿にとりかかった。しかし、私は本職の大学教授の仕事のほうの手がぬけず、その上に共訳者が長く入院されたり、また海の両側でいろいろのことがあって、意外に時間がかかってしまったけれど、でもそのおかげで、新版第8刷を底本に切りかえることが出来たのは幸せだったと思っている。

  他方、スクラントン大学の出版部のルッソー神父様が最初から出版を引き受けてくださったので、その点、出版社探しをする必要もなく、また翻訳権については岩波書店編集部の方々のおかげでスムースに仕事が捗り感謝している。

  出来上がった英訳はさすが英文学教授の、しかもハーバード大学の博士号をもつ共訳者クィン神父様のおかげで大そう素晴らしいものになったと思っている。私は単に意味だけでなく、文に含まれているムードや感情も、原作に最も忠実に英語の読者に伝わるように特に気を配った。 とても贅沢な英訳のしかただと思うけれど……。

  考えてみると、日本人は外国の出版物をどんどん日本語に訳して、誰もが外国の文学その他を読みこなしているけれど、その逆はおろそかにされている。即ち、日本で発行される素晴らしい学術書など、外国の人には手のとどかない存在になっている。昔はミッショナリーが日本研究をしたり、太平洋戦争中にアメリカの海軍が日本語を勉強させていたりしたけれど、そういう日本語に達者な人達はもうすっかり老年になり、現在日本の書物を読みこなせるアメリカ人・ヨーロッパ人はほとんどなくなってしまったというのが現状である。外国の人たちに日本のことを本当にわかってもらうためには、日本人が日本の良書をどんどん英訳して読んでもらわなければと私はつくづく思っている。

  そういう背景なので、この『新版 きけ わだつみのこえ』の英訳が少しでも日本を理解してもらうということに役立てばと祈っている。私が日本人論を英語で書いてみてもそれを読んでくれる人は少いだろうし、とくに素直に聞き入れて、対日観念を変えてくれる人はほとんど皆無と思う。その点この『きけ わだつみのこえ』は戦没学生のそのままの声、しかも出版されることを意識して書かれたものでないだけに、彼らの人間性が読者の心を把握し、「日本人も自分たちも人間として同じだ」と読者が受けとめてくれることを期待している。

  多くの私の級友のお兄様も、また知人も、学徒出陣で、もう敗けるとわかっている戦にかり出されて戦死された。また終戦前、毎晩、ラジオで特攻隊の方たちの「さよなら」放送を聞いて胸をつまらせたことも憶えている。

  この英訳の仕事にあたって、私は政治的な意図は毛頭ないし、若くして戦没なさった方たち---本当に生きていただきたかった方たち---の人間性を、日本語の読めない人々に紹介したいという思いで始めたので、このささやかな私の英訳の仕事は、亡くなった方も生き残られた方も含めて、学徒出陣で出られた方たちに捧げさせていただきたいと思う。

Midori YamanouchiPh.D.
Professor
The University of Scranton
2000.6.20
米国ペンシルヴェニア州スクラントンにて


『わだつみのこえ』113号 (2000年11月20日発行) pp.72-74
©日本戦没学生記念会 2000
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