三輪田学園、松操会誌掲載文


                                       三輪田学園松操会   http://www.miwada.ac.jp/


                                       以前NHKで放映された「坂の上の雲」の主人公、好古の娘たちも通った母校、大先輩に日本画家郷倉和子氏が含まれる

ー125周年に寄せてー

桃源郷より   
               
       28回D 小川リヱ (旧姓 関谷)

山梨にうつり住み30年が経ました。

延原先生の国語で習った陶淵明の理想郷、桃花であふれる土地の現実は美し反面、至極不便で住み始めた頃はかなり当惑したものです。
小学校は徒歩2,8キロの通学、甲府に向かうバスも僅かで、陸の孤島というべきか「都落ち」とか「島流し」と落胆していました。
やがて運転をマスターし行動範囲が広がると美術教師と子育てと同時進行で制作活動を続けコンクールなどに挑戦したものです。

娘が保育園に通う頃自由美術協会員推挙となり、靉光賞受賞、翌1993年には文化庁現代美術展に出品、
隔年ごとの開催、山梨県新進作家選抜展にも5回から最終の8回4度招待出品致しました。

漸く、本年1月24日より2月26日まで約1か月あまり山梨県立美術館主催のギャラリーエコーで企画展という幸運に恵まれ、S120の大作と3部作(縦243cm)を含めた計6点を発表するに至りました。ミレーをお目当てに訪れた観光客の多くが立ち止まって鑑賞し、搬出の際当館の学芸員からも好評だったと聞き及び安堵しております。同時期、隣接する山梨県立文学館でも買い上げ作品(やまなし文学賞の挿絵)が新収蔵作品展に展示され、芥川龍之介の直筆のわきに並ぶという快挙の喜びを得ることができたほか、県立美術館の油彩実技講座の講師として毎日曜日の4回にわたり45名の受講生に自画像制作の実践講義を担当しました。

この会期中、遠路はるばる松操会30周年で再び親交が深まった鈴木(中台)裕子さん、同じく女子美に進学された丸山(新保)京子さんも三重から来館されて、いつしか名古屋弁と甲州弁が入り混じる妙な会話に花咲きました。三輪田のある「ふるさと東京」、遠い時間を思い起こすばかりです。

昨年10月、その鈴木さん(御夫君は日芸写真部教授)のご厚意により、青山のギャラリーストークスで華道家の田中(丸山)弘美さんと一緒にコラボレーションを試み、三輪田の3人、輪のリング、田のフィールドから3RFという名称で個展をしました。指定された時間枠の同窓会から逸脱した気ままなプチ同窓会をしようとの発案です。裏に岡本太郎美術館、骨董通りに面した画廊には松操会の方々並びに担任の安居院先生や退職された西先生にも御来廊頂き、大変印象深い展覧会となり感謝を申し上げる次第です。

当然ながら会場は昔の女子高生の集団に戻ってしまった齢50あまりの「何ともかわいい三輪田生」であふれ、旧姓、ニックネーム、一人3種の呼称が飛び交うため、その場に居合わせた知り合いの美術関係者も困惑するほどだったのです。

「なんだか昨日も会っていたかのように普通に話していたよね。楽しかった」という感想も頂戴し、毎年10月初めに3RF展を続けようと計画中です。銀座の個展とは異なり小品で構成する内容も勉強になります。訪れた同窓生の中にはピアニストの夫を支える石井(岡島)由起子さんや刺し子作家の小野崎(前田)秀子さんをはじめ、
建築家の竹下啓子さん、声楽家の井上真理さん、イタリア大使館に勤務される菅野(田沢)美智子さんなど個性的な職種の方も多く驚きました。

感銘深い事で励みになったことがあります。

中高通して6年間美術部だった私はクラスメイトをモデルに、ひたすらデッサンに明け暮れた憶えがあるのですが、その友人達が複数存在し(もはや死語となった)早乙女時代の素描を
40年の長きに渡り大切に保管していることだったのです。まるで奇跡ともいうべき温かい三輪田生の魂、タイムトラベルのような面持ちで再び自作に対面したい衝動に駆られています。

振り返れば三輪田入学と同時に美術部で憧れの油絵具に触れてから数えること画業40年。

中間考査の最終日には、弁当を持って北の丸公園を抜け竹橋の国立近代美術館まで歩き、多くの作品を鑑賞していたものです。夏には部員とスケッチブックをほっぽり出してボートを漕い で遊んだ思い出があります。

先ごろ池袋モンパルナス展(板橋美術館)も開かれましたがこの主軸となる吉井忠氏を父君にもつ吉井爽子先生に美術を学び、ご自宅も同じ沿線のため訪問させて頂いたことなど
10代前半において多大な影響を持ち得ました。
下級生達も招かれ各々がモデルとなり先生と一緒にデッサンをかさね、階下にある父君のアトリエにも入らせていただくなど貴重な体験を
ていたわけです。

あるときのことでしたが下級生の一人がその画室にたたずみ
イーゼルに置かれた風景画を見つめ「今まで貯めたお年玉をはたくから
この絵を買いたい」と言ったことが鮮明な記憶にあります。
老画家もさすがに苦笑されましたが、無垢な三輪田ならではと
ほほえましくも清潔で偉大な台詞だったような気がしてなりません。

筆者に限らず「道」を極められた諸先輩の方々にも御経験があると察せられますが、
画風を確立し様々な批判に耐えながら制作意欲の高揚を調節するため、
日常生活をどのように保持するかは至難です。
講師として中学、高校、専門学校を掛け持ちして山梨を東奔西走する一方、
山梨大学に美術教育の大学院が設置された初年度に受験、
中学1年の娘と大学院1年の母で武田通りを往復する2年を過ごしました。
修士論文研究のため大木奨学金を取得しイタリアに赴きルネサンスの後期にあたるマニエリスムを研究し、
その後山梨メセナの助成金で描画における筋肉表現を探求。
地元のNHKでは「美を求めて」の特集番組でも放映され、
昨夏は東京芸大の美術解剖学学会でフエラーラ派について論文発表を行いました。
画家でありながら(18年講師を務めた宝石美術専門学校では)生体機能論や近代デザイン史などの講義を続け学問に関与して報酬を受ける立場になってもいました。

昨今でいうところの歴女(レキジョ)にあたるのか三輪田で培った学習力、岡本先生の歴史は礎となり大変感謝しています。

現在でも坂本満先生(元うらわ美術館館長)に師事、美術史の「マニエリスム」について描画による考究を続けています。この環境が教育面でも早稲田の博士課程に在籍する娘に影響を与えたようです。どうやらお金に縁のない事に夢中になる性分を受け継いだらしく無声映画の研究でPDを取得し、スイスに国費留学とあいなり、さても教育ママ終焉といったところでしょうか、在校中の成績はパッとしませんでしたが全く不思議な経緯です。

さいごに、三輪田を知る人は比較的年配の東京人であることは周知の如くですが、この度の出展に伴い山梨県立文学館学芸課に御挨拶を申しあげたところ、かような山里でもわが母校の名を存じておられたという嬉しい発見がありました。異郷にあっても共通のキーワード、三輪田学園は心の支えです。あらためて微笑みのまなざしを三輪田に向け、ますますの発展を期待したいと思います。