アダムの林檎
「あ、そう言えばさ」
と呟くように言って天井を見上げた。それだけ。たったそれだけの動作。軽く反らされた喉首の、ほっそりとした印象を裏切るような隆起。
「あの1本だけ、切れかけてるみたいなんだよね、ほら、ちょっと暗い感じしない?」
指差した古い蛍光灯に視線を移すテンポが一瞬遅れて、後ろめたさに身じろいだ。
「今日子さんが来るまでには替える気でいるんだけど、忘れちゃうと嫌だから。加賀も一応覚えといて」
ああ、と曖昧な返事をして伸びをした。首筋から背中にかけて、べっとりとこびりついている疲労感。
徹夜作業が堪える年齢になってきた、なんて、まだ思いたくはないけれど。
未だに少年めいた印象を持つ――実際、加賀より5歳ほど若い――フィル・フリッツは、大した疲れもないような顔をして、それじゃ、おやすみ、と今更な挨拶を送って寄越す。
「オヤスミったって、朝だけどな」
「でも寝るでしょ」
「寝る」
「ね。また、5時間後に」
きっちり起床時間まで指定してくる弟分に溜め息を返して、加賀はひとりの廊下を歩き出した。
夜明け直前の空気はしんと静まって冷たい。それでも、項の辺りにぞくぞくと寒気を感じるのは恐らく、気温の所為ばかりではない。
フィル。元ドライバー、現メカニック見習い。ハヤトとも新条とも違った意味で、加賀の毎日に組み込まれている「かわいい弟分」。
――いつの間に、あんなになった。
自分の迂闊さに愕然とする。ついさっきまで気付きもしなかった。如何にも子どもらしくすんなりと細かった首筋が、あんなにもはっきりと男のものに変わっていたなんて。
ここが好きなの、と目を細める女がいたことを不意に思い出す。冷たい指先がくっと隆起を押し込んでくる感触も。
ゆるやかに込み上げる息苦しさ、三日月みたいに細まる瞳、紅を塗った唇は薄く開いて、笑った。
普段なら意識すらしないささやかなパーツが、女にとっては時に劣情をそそる引鉄になるらしいということを今は、知っている。
女にしか受容体の無い特別な刺激。加賀は男だから、そんなものにそそられたりはしない。ただ、微かな恐怖を煽られる。
いつの間に、男になった? 当たり前だと言えばそれはそうだ、とっくに二十歳を過ぎている。かつての自分を思い出せ、その年頃には、当然のように子どもじゃなかった。それでも。
無口で大人しい。傷付きやすく繊細な。挫折と痛みを知っている。どこか芸術家肌の。鳴かない猫を思わせるような、少年。
――だった、はずの、フィル・フリッツが、いつの間にか強かな男になっている。
もうとっくに、仔猫じゃない。縄張りの中の、若い雄。若く健康で、美しく冷静な。どうして気付かなかった? 何の警戒もしなかった? ……気付かないように、されていたからだ。
油断させられていたからだ。いつまでも子どもじゃないって、俺だって身を以て、知ってたはず、なのに。
寝るためにしか使わない寝室、放置しておいたモバイルフォンがちかちか光る。着信履歴を示す点滅、いつもなら頬を緩ませるだけの彼女の気配が、今日は胸底をざわめかせる。
加賀以上にフィルを可愛がっている彼女にも、擬態は通じているのだろうか。おっとりと無邪気に細めた目の奥は、虎視眈々と光を湛えているんじゃないか、そして、
軽く俯いた首元の、人によっては酷くそそるらしいパーツが、不意に彼女を撃ち抜いてしまうのを待っているんじゃないか。
喉元を押さえ付けられたみたいに、やけに呼吸が苦しくなった。――ああ、気付くんじゃなかった。楽園育ちの禁断の果実。
倒れ込んだ枕のすぐ脇で、モバイルフォンはちかちか光る。林檎の色をした点滅を、見ないで済むよう目を閉じた。
[2015年02月]