二十年後


「おっ、来た来た!」
「片桐! こっちだ」
 低いざわめきの満ちる薄暗がりに、弾んだ声が響く。懐かしい声に顔を綻ばせて、片桐は少し足を早めた。 辿り着いた隅のテーブル席には、四十そこそこと見える男が二人。 猫のように油断のならない瞳で片桐を見上げた男は、煙草を口から外して笑い、もう一人のどこか品のいい男の横には、綺麗に空になった皿がうず高く重ねられている。
 ああ、相変わらずだなぁ。感慨を笑顔に変えて、片桐は空いた席に滑り込んだ。
「久しぶり。全っ然変わらないな、片桐」
「新条さんこそ、お変わりなく」
「お世辞なんかいらねーぞー片桐。薄っ暗いから分かんねぇだけで、コイツの白髪ときたら! もーすっかりオッサンなんだもんなー」
「余計なお世話だ。加賀こそ生え際の心配でもしてろよ」
「うっわムカつく! 新条のクセにナニその言い草! 信じらんなァいっ!」
「加賀さんも、お元気そうで」
 年甲斐もない言い争いににこにこと感想を述べつつ、片桐は通り掛かった店員におしぼりとビールの追加を頼んだ。 高校生のようにぎゃんぎゃんと喚き合っていた二人が、漸く落ち着いた顔になってこちらを見る。
「ほんと、久しぶりだな。どんくらいぶりだ?」
「片桐がアオイ辞めたのが……えーと、おれが引退した次の年だったか?」
「そうですね。だから、こうやってお会いするのは丸10年ぶりってことです」
うわ、と声を上げて加賀がのけぞる。
「十年! そんなに経っちまってんのか。……あー、そりゃ歳も取るわな、お互いに」
 あはは、と笑い声で応じる。ちょうど運ばれて来たグラスを受け取ると、目聡く気付いた加賀が「再会に乾杯!」とグラスを掲げた。 乾杯、と声が続き、かちりとグラスがぶつかり合う。懐かしい声、懐かしい音、とても懐かしい、光景だ。
「引っ越しはもう済んだのか?」
「ええ、先週。幾らか家具を買い替えようと思ってたんで、今はその入れ替えをしてるところです」
「どーよ、久々の日本暮らしは」
「楽ですねー。やっぱり、基本に刷り込まれてるのは日本なんですよね。子どもらが馴染めるかどうかはちょっと心配なんですけど」
 そっか、と呟いた加賀が、新しい煙草に火を点けながら笑う。
「しっかし、この期に及んでアオイに出戻ってくるとはなー。お前、ほんっとアオイ好きなんだな」
「嬉しいですよ、戻って来られて」
 自然と顔が綻んだ。
「でも、正直言えば、別に特段アオイが好きだった訳じゃないんです」
「へ?」
 真ん丸になった加賀の、意外そうな新条の目に見つめられて、片桐は困ったように笑う。
「いや、もちろん、嫌いだったわけじゃありませんよ。というか、好きです。でも、取り立てて言われるほどの愛情じゃない、というか」
「……そっかぁ? 俺には、じゅーぶんすぎるほどアオイが好きなように、見えてたけどな」
「おれにも」
「どんなところがそう見えたんです?」
 訊き返してみる。加賀と新条は一瞬目顔で何か言い交して、代表したように加賀が口を切った。
「……正直、移籍のチャンスは山ほどあったろ。アオイの状況が悪くなって、別の、もっと環境のいいチームにどんどん目ぼしいのが引き抜かれてった時期もあったし。 お前ほどの腕のあるメカニックに、余所から声がかかってないはずがないし」
「そうですね。実際、誘いは幾つもありましたよ」
「それでも、片桐はずっと辞めなかったから。よっぽどアオイに対する忠誠心があるんだな、と思ってたんだ」
 後を引き取った新条に、思わず頬が緩む。この自覚の無さも、なんとも懐かしいなぁ、などと思って。
「違います。確かにごたごたした時期はありましたけど、オレがそのとき辞めなかったのは、忠誠だとか義理だとかじゃないんですよ」
「じゃあ、なんなんだよ」
「新条さんです」
 にこりと笑うと、新条が「え」と小さな声を上げた。加賀が眉を上げる。
「どーいう意味だ? ソレ」
「そのまんまの意味ですよ。新条さんが居たから、――絶対また戻って来るって思ってたから、辞めなかったんです」
「……ええ? このめんどくさい、扱いにくいナマイキ野郎がいたからぁ?」
「おまえには言われたくない」
 意外だ、という顔で片桐を見つめつつも加賀にはきっちり突っ込みを入れる辺り、流石というか何というか。微笑ましい思いに顔を綻ばせながら答える。
「オレ、実はアオイに入る結構前から、新条さんのこと知ってたんですよ」
「……前から?」
「ええ。2015年まで、目立つ日本人ドライバーは少なかったですから」
「確かにな。ハヤトも新条も、デビューは15年だもんな」
 そういう加賀自身もCFデビューは同年だ。
「唯一の注目株がF1の菅生修で、だからその頃から、下位カテゴリにも結構、注目するようになってたんです」
 まだ、進路も何も考えていない中学生だった頃だ。それでも、いつかはその世界に入って働きたいと、漠然とだが考えるようになっていた。 自分にドライバーとしての適性はない。その自覚は当時からはっきりとあって、だから尚更、レースの主役たちの華やかさに惹かれたのだ。
「それで、いつだったかたまたま流し見してたレースで、オレより年下の日本人ドライバーを見付けたんです」
「……おれを?」
 呟いた新条に、頷く。
「なんか妙に、惹かれて。正直に言えば、期待したんでも感心したんでもないんですけど、なんていうか……うん、単純に気に入ったんですよね。 ああ、この子応援したいな、って。この子に勝ってほしいなって、素直に思ったんですよ」
「新条のファンってみんなそういうコト言うよな。お坊っちゃん育ちってのはそんなもんなのかぁ?」
 加賀が茶化した調子で口を挟む。
「そんなこと言ったら、ランドルだって同じ筈だろ」
 勿論、傲岸不遜が持ち味の、「お坊っちゃん育ち」のオーストリア貴族が抱えていたファン層は、新条のそれとは全く傾向の異なるものだ。 新条の、もっともなようで若干的外れな抗議に声を立てて笑い、加賀はほんの少し真面目な目に戻って、ま、なんとなくはわかる、と呟いた。
「そう思ってくれる奴がたくさんいて、しっかり支えてくれたから、だからCFであそこまでやれたんだろ。 ……なんだかんだとツイてない割には、お前は運のいいヤツだと思うぜ、新条」
「加賀……」
 戸惑いつつも感動を表に表わそうとしかけていたところに、ぱっと表情を戻した加賀がからかいの声を投げかける。
「もっとも、幸運の大半はみきちゃんを掴まえたコトで使い果たしたよーな気がするけどな! 分不相応もいいとこだもんな、まったく!」
 わはは、と品のない笑い声をあげる加賀につられて噴き出した片桐を、薄暗い中とはいえ新条も見逃したりはしなかった。
「片桐……おまえまで……」
「いやいや、それがアオイの関係者全員の本音でしたよ、当時は」
 一応、「当時は」を強く発音してフォローする。
「アオイだけじゃねーぞ。どのチームにも、必ずひとりふたりはいたからなー、みきちゃんファン」
「ここだけの話、別れればいいのに、って毎日呪文のように唱えてた奴を5人は知ってます」
「うんうん。ユニオン復帰の直後には、日本人は慎み深いと聞いていたのに、ってグチ散々聞いたわ」
「どれだけのメカニックが枕を涙で濡らしたことか……」
「よりによってこんなヤツだもんな……そいつらも気の毒だよなぁ……」
「……おまえら……」
 大袈裟に涙を拭う仕草を始めた二人に、地を這う声音が噛み付く。
「ま、結局フラれも捨てられもせずにここまで連れ添ってもらえてるワケだし、よかったんじゃねーの?」
「……微妙にひっかかる言い回しだな」
「まあまあ、飲みましょう飲みましょう」
 懐かしい日本の生ビールを注ぎつつ、片桐はにこやかに新条を宥めた。
「オレも、よかったと思いますよ。やっぱり初めのうちは心配でしたから。 ちょっとケンカでもしたかなーと思うと、新条さんもみきさんも不機嫌だったりするし、そうなると作業の効率も落ちるし」
「それは……すまない」
 途端にしゅんとなる新条は、まるで叱られた子どものようだ。あどけないと言ってもよさそうな態度に破顔する。
「まあでも、だんだん慣れました。対処の仕方も判りましたしね」
「対処? どーいう?」
 加賀が興味深そうに身を乗り出してくる。
「新条さんて、苛々してると加速のタイミングにムラが出るんですよ。で、みきさんの方は機嫌が悪いと仕上がりがいちいちオーバー気味になるんです。 データエンジニアに様子を見てくれって伝えておいて、データからその辺の変化を追い駆けて、 今日は新条さんにフォローが要りそうだなとか、みきさんそろそろガス抜きが必要かなとか考えて、周りからあれこれ手を打つんですよ」
「……そりゃ、大変だな」
「慣れればどうってことないんですけどね。今日子オーナーに、みきさんを食事に誘ってあげてくださいって頼んだり、 クルーに言って、新条さん含めてのミーティングの時間を多少長くしてもらったり――そういうのは、さっきの加賀さんのセリフじゃないですけど、 新条さんを応援したいと思ってる人がたくさんいて支えてくれたから出来たことだと思ってます」
「……それは……あの、なんていうか、今更だけど、……ありがとう、片桐」
 今更でも何でも、こうやって衒いなく礼を言えてしまう性格が、新条を取り巻く「応援したくなる雰囲気」の要素のひとつなんだろうな、と片桐は思う。 だから、苦労はさせられたけれど、ちっとも後悔はしていないのだ。新条直輝というドライバーに、深く関われたこと。
 酔いが回るまでにはまだかかる筈なのに、既にふわふわと気持ちいい。満足感か懐かしさか、とにかくこの親しい空気に多分、酔っているのだ。 折角だから、少し調子に乗らせてもらおう。新条から目を離し、ほんっと手ェかかる野郎だよなお前!と笑い声を上げている、加賀に今度は微笑みかける。
「まあ、加賀さんにもなんだかんだで、手を焼かされはしましたけどね」
「えー? 俺はコイツと違って、面倒なコトなんかしでかさなかっただろ?」
「本気でそう思ってるように見えるのがすごいよな……演技派なのか、本当に忘れてるのか……」
 きょとんとした顔の加賀を見やりつつ、新条が妙なところに感心している。
「そうですね、2022年シーズンを別とすれば、特に大きな厄介事はありませんでしたけど」
 特定の年を挙げられて、流石の加賀も若干バツの悪そうな顔つきになった。 輝かしい総合優勝の年が同時に些か後ろめたい記憶でもあるというのは、加賀にしては珍しい、不幸な出来事であったと言えるかも知れない。
「ただ、日常的にこまごまとは、ありましたよ。新条さんみたいに自覚がないのも厄介ですけど、加賀さんの場合は分かってて敢えてってとこがまた憎たらしいとこで」
「さりげなくニクタラシイとか言うなよ……」
 ツッコミを無視して続ける。
「何より、来る者拒まずに見せかけといて一定距離から拒みまくりってのが最大の迷惑でしたねー。特に女性に関しては。 勝手に熱くなって勝手に傷付いて若干自棄になってる女性がたくさんいる職場なんて、どこ歩いても火種だらけっていうところでしょう、 チャンスと思ってちょっかい出したがる男性クルーに、そら見たことかって勝ち誇る女性スタッフに、雰囲気が険悪すぎて仕事出来ないって訴えて来る新人組とか、 もー管理し切れないから投げてやろうと思ったことが何回あったか」
「……お前、そーいうコト語りながらにこやかさが全然崩れねぇってすげーな……」
「話逸らそうとしてもダメですよー加賀さん。本社から来てたエリサ・シュタイナーのときなんか大変だったんですよー本当、 今日子オーナーがわざわざ時間取って謝罪に行ってくれて。 あと、騒ぎが大きかったのはユイ・リーのときですかね、トニオ、えっと、覚えてます? 研究員のトニオ・マクレガー、ほら、ユイが辞めるなら自分も辞めるのなんのって、 オーナーに3回も面談してもらって、それでやっと引き留めたんでしたっけ。いやぁ、どれもこれも懐かしいなぁ」
「加賀、おまえ……今日子さんにどんだけ迷惑かけてんだよ……」
「ばっ、……バカ言うな、面談なんてハナシ俺だって初耳だぞ!」
 最早汚らわしいものでも見るような目付きになっている新条に加賀があたふたと弁解する。
「そりゃー、ドライバーにはレースに集中してほしいですからね、オレだって今日子オーナーだってその辺は隠しときますよ。 他にも、勝手に得体の知れない個人スポンサー増やして来ては広報部門から捩じ込まれたり、 あー、スポンサー以外の銘柄の煙草をレセプションで吸って騒ぎになったでしょう、あのときもオーナーは大変だったみたいですし、 あとはほら、契約更新前に勝手に外部レース……」
「すいませんちゃんと色々思い出したのでもう止めてくださいお願いします」
 突然額をテーブルに打ち付けんばかりに謝り始めた加賀に遮られて言葉を切る。うん、楽しい。 片桐は殊更にっこりと微笑んで、フィナーレを祝うべく手持ちで最大の爆弾を投下した。
「じゃ、その話はこの辺で。まあ、加賀さんに関してそれ以上に面白い話って言ったら、掲載用見本一枚紛失事件くらいのもんですしね」
「は?」
 何ソレ?と首を傾げた新条の向かいで、加賀が「げふ!」と妙な音を立てる。一安心とばかりに呷ろうとしていた生ビールの残りが、見事に気管に入ったようだ。 げほがほと痛々しく咳込みながら、縋るような目線で加賀が見上げてくるのが分かったが、さらりと見ないふりをして、新条に向かって解説を始める。
「確か2019年か、20年かのどっちかのテストシーズンだったと思うんですけど、恒例のMOVEの取材の後に、広報のマイアから連絡があったんですよ。 掲載許可をもらう為にオーナーに渡す予定の写真原稿見本を、どっかに置き忘れてきたみたいだって。 マイアは午前中にその束をオレに見せに来てましたから、そっちの機材の上にでもぽんと乗っけちゃってないか、目に付くところを見てほしいって言われて」
 まだけふんけふん言っている加賀が果敢にも片桐の口を塞ごうとしたが、咳込む体に腕の動きを妨げられるのか、難なく払い除けられている。
「で、みんなしてきょろきょろしたけど見当たらなくて、そう報告しようとした矢先に加賀さんが、コレじゃねーの?って言いながら件の束を片手に現れたんですが」
「うん、それで?」
 何やら面白そうだと感じ始めたらしい新条が、テーブル越しに手を伸ばして加賀を抑え込むのに協力してくれた。
「時間が無いって騒ぎながら慌ただしくマイアが取りに来て、ばたばたとチェックが終わって編集部へ送り返して、で、数日してからですね、マイアからまた連絡があったんですよ。 見本は86枚の写真を束にしたものだった筈なのに、MOVEに戻ってきたのは85枚だったって。 どうやら1枚はどこかへ取り紛れてしまったらしいけど、掲載分はもう決めたから、見付かったら破棄してくれって」
「随分大雑把な対応だな……機密事項が写ってるような写真だったら大変じゃないか?」
「まあ、向こうには元データがありますし、紛失したのがどういう写真かは判ってましたから」
「……どういう写真だったんだ?」
 もがもがと暴れる加賀をにこやかに無視して、どうやら既に何かしら勘付いているらしい新条に、答える。
「プラットフォームに入ってる今日子オーナーの、横顔のアップの写真です」
「わあああああああああああ!」
 どうにか手を振り解いた加賀のあげる喚き声も、勿論手遅れだった。ああやっぱりー、という顔で頷いた新条が、片桐以上のにこやかさで加賀を見る。 無言の雄弁。反論も出来ない加賀。20年にもなろうかという長い付き合いの中で、初めて新条が加賀に対して放つ強烈な「上から目線」である。
「……ひ、ヒドイわ片桐ッ……そんなコトばらされちゃったら、もう俺、お嫁に行けないッ……!」
「いやおまえ既婚者だろ」
 両手に顔を埋め、「よよよ」と効果音付きで泣き崩れながら自らを茶化してみせる加賀の神経は流石だが、 幾分色白の耳朶が真っ赤に染まってしまっていることは、誰の目から見ても明らかである。 ああやっぱりー、と片桐も思う。軽薄ぶって世慣れたふりをしているが、本当のところ結構な照れ屋なんじゃないかとは、昔からずっと思っていたのだ。
 歳を取っても、経験を積んでも、本質はどうやらそうそう変わらないものらしい。……長い長い付き合いを通じて、改めてそう思う。 飄々としてけれどひどく真摯な加賀も、不器用でけれどどこか清々しい新条も。そんな彼らに惹かれた自分も、あの頃からきっと、大して変わっちゃいないのだ。
「まあまあ、呑めよ加賀。今日子さんには黙っといてやるから」
「くぅ……よりによって新条に見下されるとか、未だかつてない屈辱感……!」
「おまえそれ悔しがってるふりしてさりげなくおれを莫迦にしてるだろ。言いつけるぞ」
「いやあああああごめんなさいゆるしてえええええ」
「許さん。ほら呑め。全部呑め」
 高校生のようにじゃれ合うふたりを見ながら、破顔する。 こんなことを話すつもりじゃなかったのだけれど、今後の日本での生活やらアオイでの仕事やらに関して地盤固めの一環にでもなればと思って来たのだけれど、 なんかもう、どうでもいいような気がしてきてしまった――だってこんなに、楽しいから。
 新しく運ばれてきたビール瓶をやはりにこやかに受け取りながら、片桐はひとり、幸運な出会いに感謝した。

[2011年12月/for Ms. shiro as commemoration of 13000-hits]