幸せの代償
「加賀くんが羨ましい」
「はい?」
唐突に沈んだ口調で名指しされて、加賀は振り向いた。魔法のような速さで編み棒を動かしている今日子の、横顔は声の通りに沈んでいる。
「……そんな羨ましがられるような特殊イベント、ありましたっけ」
「ないわ」
「だよな」
ちらりとも視線は動かさないまま、今日子は続けた。手繰られ、掬われ、編まれていく毛糸がしゅるしゅる静かな音を立てる。
「でも、羨ましい。というか憎たらしいくらい」
「なんで?」
「だって、今日も仕事だったじゃない」
「……うん」
「お風呂あがりにはそうやって、缶ビール開けて飲むじゃない」
「うん」
「毎晩気持ちよさそうに眠ってるし、ご飯もしっかり食べてるし、それにやたらと、幸せそうだし」
「うん。シアワセだもん」
遠慮なく頷く。横目で見て取った今日子から、盛大な溜め息。
「もう2週間も会社に行ってないのよ」
「うん」
「みんな、休め、寛げ、身体を労れって煩いし」
「まあ、親切で言ってるコトだろうしなー」
「だから尚更、無視出来ないし。実際、そう気軽に出歩ける状態でもないし」
「だな」
「晩酌も出来ないし、コーヒーも飲めないし、便秘がちにはなるし腰も背中も毎日痛いし」
「うん」
「お気に入りの服も着られないし、お風呂に入るのも大変だし、しょっちゅう病院に行かなくちゃいけないし」
「うんうん」
「妊婦さんって、ほんと大変なんだから」
「だよな」
編みかけのセーターが広げられたその下の、丸く張り出した腹部に目をやって、加賀は微かに目を細めた。
うん、知ってる。行動力に関してはその辺の男どもなんか顔負けの、仕事大好きな今日子にとって、産休そのものが許し難く厄介なものであることもわかってる。
そう、わかってるんだけど。
「でも、まあ、ここはひとつ」
「なによ」
「俺の幸せに免じて、許して?」
「……果報者ね」
「うん。きょーこさんもな」
「否定はしないわ」
まんざらでもなさそうに、笑う。
窓の外に雪の気配。果報者ふたりが新米の親になるまでに、あと、ほんの二ヶ月かそこらである。
[2011年12月]