背中
凰呀に乗るのと同じくらい、とまでは言わないが、今日子を乗りこなすのは楽ではない。
青年期から壮年期へと差し掛かりつつある年齢では尚更だ。
まして寝室の気温は寒がりの今日子に合わせて調整してあるのだから、ことを終えたあとの加賀は、
季節を問わず汗だくになるのが常だった。
慣れた手つきで彼の背中の汗を拭き取りながら、今日子が呟く。
「加賀くんの背中って、」
「ん?」
「綺麗よね。すごく」
キレイ。普通は褒め言葉だよな、これって。
レーサーの癖に跡になるような傷がひとつもない、という事実を加えても、プラスでこそあれ決してマイナス評価ではない筈だ。
なのに。加賀は内心で首を傾げる。
「……なんで不満そーなワケ?」
「ほくろのひとつやふたつ無いと、つまんないわ」
「はぁ」
「言ってみたいじゃない、『彼、背中にほくろがあるのよ』って」
「……言う必要あんの?」
「ないわ」
「だよな」
付き合い始めたばかりならともかく、とっくに周囲公認の仲である。大体、こうして同じ部屋に住んでいるくらいなのだし。
うん、やっぱり俺間違ってない、と頷く加賀に、今日子は笑いを含んで囁きかける。
「必要性の問題じゃないのよ。単なる趣味」
「悪趣味だな」
「貴方に言われるなんて、心外」
「まー失敬な」
「でも本当、痣もほくろも無いわよね。背中だけじゃなくて」
「全然ないってこたないだろ」
「それにしたって、少ないじゃない? 鎖骨の下にひとつあったかしら。あと、左肘のとこのひとつと、右耳の裏の……」
「っと、ストップ! ダメだろ数えちゃ!」
「え?」
「ホクロ数えると早く死ぬとか言うじゃん!」
「……初耳だけど」
「あれ? 言わない?」
「数えると増える、とは聞くわね」
「あら。そーですか。……早く死ぬとは言わねーのか」
「いちいち物騒なのよ、貴方」
「すんませんねー。手厳しい女王様に長年お仕えしてますと、ついつい」
「どういう意味?」
「油断してると、イキナリ致命傷負わされかねないもんで」
「何よそれ、」
「不意打ちで殺し文句言ったりするから」
「そんなことした記憶ないんだけど?」
「うわーマジで残酷ー」
「バカ」
くす、と小さく今日子が笑う。
「笑うこたないだろ。俺なんて何十回殺されてんだか、もうわかんねぇくらいなのに」
「そんなの、お互いさまじゃない」
含み笑いがゆらりと大きくなって、加賀の耳朶に口付けが落ちた。吐息の温度が空気を揺らす。
「今更気にしたところで手遅れよ。『愛し合う男女は繰り返し、短い死を、死ぬのだ』」
「……なんだっけ、ソレ」
「バタイユ」
答えながら、背後から今日子が覆いかぶさってくる。ひたりと貼り付く肌。
背に触れる乳房の感触に目を細めて、前を向いたまま笑う。
「なるほど。その定義に従うと、俺らの心中回数は確かに、かなりのもんになるってワケだ」
「私の方が倍以上多く殺されてる気がするわ」
「三倍以上は確実だろ」
「腹立つわね」
言いながらも、背中に感じる今日子の鼓動は平静だ。汗に冷えた肌にちょうどいいくらいの熱量。
「そろそろ、逆襲してもいい頃かしら」
「このまま息の根止められちまうの?」
「そうして欲しい?」
白い蛇のように首に巻きついた腕。細い、たおやかな腕だ。
5Gに耐えるレーサーの首をへし折るには、あまりにもかぼそくて、か弱い。
「この期に及んで無理心中?」
「いえ、心中じゃなくて貴方だけ」
「冷てぇの」
「結構、悪くはないんじゃない?」
「命乞いさせてよ」
「どうぞ」
「つまんないなんて言わないで、末永く可愛がってください」
「根に持つわね」
くすくす笑う。吐息が耳朶をくすぐる。
「確かにホクロはありませんが、なんなら、刺青のひとつも入れますから」
「どんな?」
「……『今日子命』とか」
「悪趣味」
「あんたに言われるなんて、心外」
「失礼ね」
「どんな刺青だったらいい?」
「『I take an oath of allegiance to Queen.』かしら」
「……『女王陛下に忠誠を誓う』?」
「Right!」
「ったく、手厳しい女王様だよな、ほんと」
「ふふ、」
溜め息に重ねるようにして、今日子はもう一度笑った。軽やかな笑い声が、加賀の背中をするりと滑り落ちていった。
※ジョルジュ・バタイユ「人は愛し合うたびに、一つの短い死を死ぬ」
[2010年12月]