宴の前に


「いらっしゃい。さ、入って」
 開いた扉の隙間から、普段見るより遥かにラフな格好の今日子が手招きしてくれた。 ちょっと意外で、ちょっと緊張する。こんな服でよかったかな。ボタンが多すぎるとか、ちょっときついとかいう服は避けたつもりだけど。
 それより、用意したドレスがあんなんで、本当に大丈夫なんだろうか。リサに上手いこと乗せられてしまっただけ、という気がしなくもない、んだけど、 今更やめるって訳にも行かないし。
 内心悶々としながら突っ立っていたら、今日子にくすりと笑われた。
「やだ、マリーさんたら、疲れてるの? 座っていいのよ、そこ」
「……あ」
 椅子を勧められているのにも気付かなかった。……恥ずかしい。小さく詫びて座ると、真正面に据えられた大きな鏡と目が合った。
 いや、正確には、鏡の中の自分と目が合った。化粧っ気のない、荒削りな顔。濃い緑色をした瞳が如何にも不敵だと、自分自身でさえ思う。
「開式は6時だから、時間にはまだ余裕があるわね」
 優雅な身ごなしで椅子の後ろに立った今日子が、鏡越しに目を合わせて、頷く。
「リサちゃんが用意してくれたドレスって、これ?」
「そう、それ。……正直言って、恥ずかしいんだけど」
「どうして? よく似合いそうじゃない」
 大きめの紙袋から取り出されたドレスは、今まで着たこともないような派手なものだった。見ているだけで気恥ずかしい。
 大体、マリー・アルベルト・ルイザと言えば、思い出されるのはレーシングスーツ姿のはずで。 サーキットの花なら他に山ほどいるんだし、何もわざわざ、ドライバーである自分が大袈裟に装うことはない、というのが昔っからの持論だったのに。
 困惑気味に眉を寄せるより早く、わくわくした声音で今日子が言う。
「総合優勝の風見ハヤトほどじゃないにしても、今日は貴女にもたくさん取材が行くと思うわ。吃驚させてあげましょう」
「……今日子さんは、いいの? 準備」
「慣れてるもの。そんなにかからないわ」
「……そっか」
「このドレスなら、化粧が先でも構わないわね。髪の毛からまずやっちゃいましょうか」
「ん。お願いします」
 赤みがかった長い髪を、きつい三つ編み以外の形にまとめることはほとんどない。 リサの選んでくれたドレスの様子からすれば、今日はきっとアップスタイルがいいんだろうけど。どんな風になるんだろう。
 見つめている鏡の中で、今日子の手が器用に動いて、さくさくと髪を巻いていく。躊躇いのない滑らかな動きだ。まるで、マシンを駆るときの自分の手のように。
「……上手だね、今日子さん」
「そう? ありがとう」
「いっつも、誰かにやってもらってるんだと思ってた」
「よく言われるわ」
 くすくすと笑う。
「時間がなかなか合わないのよね、誰かに頼んじゃうと。結局自分でやるのがいちばん楽なのよ」
「そっか。忙しいんだね」
「それなりにね」
「……それなのに、アタシの準備なんか頼んじゃって大丈夫だったの?」
「大丈夫よ」
 言いながら、髪をどんどんピンで止めていく。ちょっと引っ張られる感じがするくらいで、痛くないのが魔法のようだ。すごい。
「吃驚したけど、光栄だわ。どうして私だったの?」
「……いつもは、リサがちゃちゃっと化粧してくれるんだけど、」
「今回は?」
「今回は、特別だからって。用意したドレスがこんなだから、もっときっちりした化粧のできる人にやってもらった方がいいってことになって、 でもわざわざメイクの人頼むなんてどうしても落ち着かなかったし、どうしようって話になって……」
「で、私?」
「グーデリアンがさ、『サーキット見て回って、いちばん化粧のうまい子にすればいいじゃない!』って言うから、」
「いいのよ、気を遣わなくて。どうせ、私がいちばん化粧が濃いって言ったんでしょ?」
「……う」
 これは――気まずい。見てたんじゃなかろうか、この人。言葉に詰まって息を呑んだら、今日子は面白そうに笑った。
「ジャッキー・グーデリアンの十八番なのよね、ケバいとか派手だとか化粧が濃いとか。いい加減、慣れたわ」
「……そっか」
「長い付き合いなんだもの。私がアオイフォーミュラに入ったときにはもう走ってたんだから――ああ、ちょうど10年経つのね」
「それは……長いね」
「マリーさんとだって、随分長い付き合いになるじゃない?」
 思い返すように、目を細める。
「アタシは、CFは2016年からだから……そうだね、9年目だ」
「話をするようになったのは、えっと、2021年ね。そこからでも、4年の付き合いがあるんだわ」
「ホントだ」
「……寂しくなるわね」
 ほろりと零れたような声だった。手だけは、何事もなかったように動き続けていたけれど。
「随分、引きとめられたでしょう? 充分、現役でやっていけるのに」
「監督からは、熱心に口説いてもらったよ」
 思い出して、笑みが零れた。決してトップレーサーではなかった自分を、シュトルムツェンダーに迎え入れてくれた頑固者の監督。 冷静で現実的な人だと知っているからこそ、引きとめられて嬉しかった。とても。
「でも、もうそんなに若いワケじゃないしさ。……正直なとこ、体力的にはキツい。グーデリアンはすごいと思うよ、やっぱり」
 2歳年上の筈のチームメイトは、未だに総合優勝争いの出来る第一線のドライバーだ。 既に肉体的なピークは過ぎているだろうに、そんなことを微塵も感じさせないほど、エネルギッシュで能天気で、陽気でそしてアグレッシブなままでいる。
「いい加減に見えるけどさ、いろいろ。レースに関してだけは、ちゃんとしてる。……すごく努力、してる。いいチームメイトだったよ」
「そう」
 短い相槌だけれど、今日子の声音は優しい。レースとレーサーが、大好きなのだ。この人も。
「彼にとっても、チームにとっても、貴女はいいドライバーだったと思うわ。って、他チームの私が言うのも何だけれど」
「……そうかな」
「グーデリアンは、マシンを振り回すタイプのドライバーですものね。じっくり時間をかけて育ててあげるのが苦手なのよ。 貴女が丁寧に完走を重ねてくれてなかったら、幾らヘル・ハイネルのマシンでも、あれほどの活躍は無かった筈よ」
 照れくさい。うまく答えられなくて視線を彷徨わせたら、鏡越しに目が合った。大きな、猫のような瞳だ。 それでも今は、サーキットにいるときとは違って、穏やかでのびのびとした色をしている。
「……なんだか、嘘みたいだね。自分がCF走れるってだけでも夢みたいだったのに、――4年も、トップチームで戦えたなんて」
「貴女が勝ち取ったポジションよ、」
「みんなが、助けてくれたからだよ。……ホントに」
 懐かしさに、目を細める。シュトルムツェンダー加入を巡っては、そう、派手な一悶着があったのだ。思い出したのだろう、今日子が小さく笑う。
「大変だったわよね、あのときは。――でも、楽しかったわ」
「うん。楽しかった。仲間も、すごく増えたし」
 同性の友人など、望むべくもないような環境だったのだ。同じCF界で親しく口を利く女性など、みきくらいが精々だった。
 一悶着の発端の時は、まずそのみきが――別チーム、AOI-ZIPにいた城之内みきが、怒ってくれた。 みきの訴えを受けて今日子が動き、あすかが賛同し、キャンギャルたちも、移籍予定先のリサも、「味方」になって戦ってくれた。
 終わってみればお祭り騒ぎだったような一悶着のその後は、しょっちゅう女性陣だけでのイベントごとで盛り上がったものだ。
「今日子さんは、頼もしかったなぁ。さすが、『女王様』って言われてるだけある、って思っちゃった」
「やだわ、」
 苦笑する。あの頃より幾分柔らかくなったような、眼差しで。
「私はね、……正直、貴女に嫉妬してたのよ」
「え?」
 ――だから、一瞬聞き取れなかった。だって、そんな柔らかな目をして言うセリフじゃ、ないはずなのに。
「貴女がデビューしたときにね、……ああ、しまった、って思ったの。私が言い訳をして避けてきた道を、ちゃんと突破した人が出てきてしまった、って。 ……後で、冷静になって考えればだけどね」
 細い束に分けた髪を編み込みながら、何でもないように続ける。
「小さい頃から、レースが好きだった。お父様がレーサーだったんだから、当たり前かも知れないけど」
 そう言えば、葵走一郎って人は、もともとアオイのレーサーなんだった。年齢差を考えれば、今日子が物心ついたときにはまだ現役だ。
「自分も、大きくなったらレーサーになるんだって、当たり前に思ってたのよ。 それを否定されて、……男の子じゃないんだから無理だ、って言われて、ああ、そういうものなんだ、って思ってしまったのね」
「そう……」
「だから、貴女がCFデビューしたときは衝撃だった。何よ嘘吐き、女だったってちゃんとレーサーになれるんじゃない!って、まず両親を恨んだわ」
 微笑みが、少しほろ苦く変わる。髪を結う手はそのままだ。
「……それから、自分を恨んだわ。他人に言われて諦めるなんて、無能もいいところじゃない? 諦める程度にしか好きじゃなかったのかって思ったら、すごく、落ち込んだ」
「そんなこと……思ってたんだ」
「意外?」
「うん。……今日子さんは、いつも堂々としてるように、見えてたよ」
 泣く子も黙る、『アオイの女王様』。気が強くて厳しくて、有能で負けず嫌いで精力的な女社長。 他チームの一介のスタッフまでも届いてくる、数々の武勇伝には説得力があったものだ。
「それは、頑張った甲斐があるわ」
「意地張った甲斐がある、じゃなくて?」
 言ってやると、もう!と膨れてみせる。鏡越しに目が合って、また、笑った。
 こんなやりとりが出来る今が、とても嬉しい。
「……性別なんて、関係ないって思ってたんだけどさ」
「ええ」
「でも実際、CF上がるってのは結構、キツくて。セベナージのシートが空くかもって噂が出た時も、なんとなく遠巻きに見てるつもりだったんだよね」
「けど、ちゃんとシートを得たじゃない」
「……応募しようかなと思ったのは、今日子さんがいたからだよ」
「え?」
 さっきまでのやりとりを、裏返しにしたみたいだ。髪に触れてる今日子の手から、呆気にとられた感じが伝わってくる。かわいい。ちょっと笑って、続けた。
「女にトップカテゴリは無理だ、って、言われたんだ。周りから。そうかな、って自分でも思ってた。でも、そう思いながらテレビ点けたら、――いるんだもん。そこに」
 鏡に写った今日子を見て、目を細める。ああ、そう。この人だ。若くて綺麗で、傲慢でナマイキな、サーキットの女王様。
「トップカテゴリで、トップチーム引っ張ってる、自分とほとんど歳の変わらない女の人がいるんだもん。 ……なんだ、無理なんてことないんじゃん、って、気付いちゃったんだよね」
「……そう、なの」
「意外?」
「……ええ。貴女が、……そんなに、周囲を気にしてるようには、思わなかったから」
「お互い様だね」
 笑う。今日子も応えるように、笑った。髪に触れている手から、ふっと余計な力が抜ける。
「あーあ、引退しようって時になって今更、こんな告白することになるとは思わなかった」
「私だって思わなかったわ」
「ま、いっか。打ち明け話は女同士の特権」
「色気のない話でごめんなさいね」
「別にいいよ? 今から色っぽい話に移行しても。時間はまだ、じゅーぶんあるみたいだし」
「色っぽいって言ったって、」
「……最近、加賀とどうなのか、とか」
「ちょ、」
「た!」
 慌てたらしい今日子にぐい!と髪を引っ張られて、思わず悲鳴を上げる。あたふたと謝る今日子と鏡の中で目が合って、おかしくなってまた笑った。
 ――マリー・アルベルト・ルイザ、最後のCF総合表彰式。パーティーの始まりまではまだ、もう暫くというところである。


[2011年5月/for Ms. rikinyanko as commemoration of 6666-hits]