Beloved by the devil
掴めない女だ。にこにこと微笑む青い瞳を見ながら、混乱した思いに眉を顰める。
めざとく気付いた彼女が、まぁ、どうかなさいましたの?などと囁く。口調は優しく穏やかで。それでいて瞳は、硝子玉よりも尚も空虚なアイスブルーだ。くらくらするのは酒の所為、だけではない――気がする。
無邪気な笑顔に油断のならない頭脳を隠して、美貌の天才、クレア・フォートランが今日子にグラスを差し出したのは小一時間ほど前のこと。ロシア産だという呑み慣れないスピリッツはずいぶん強烈で、流石の今日子でも酔いを自覚しない訳にはいかなかった。幸いなのはここが人で溢れるホールではなく、家主が開放してくれた客室のひとつだということだろうか。ぐらつく頭を柔らかな枕に横たえたい衝動に駆られて、今日子は自分の額に手を当てた。
「酔いました?」
つい、と手を伸ばして、彼女が頬に触れた。ひやりと冷たい、マネキンのように綺麗な手。
「随分お顔が、赤いようですわよ」
さらりと頬を包まれて、思わず深く息を吐いた。喘ぐような。何かを求めるような。直後、無意識に頬をその手のひらに擦り付けていた自分に気付いて、反射的に身を引く。――彼女もするりと、ついてくる。
「可愛らしいんですのね。仔猫のよう」
くす、と小さな笑いを含んで、彼女が至近距離で囁く。冷えて深い、空虚な青。白磁のような頬。薄く形よい唇。おっとりとしてしかも鋭い皮肉を紡ぎ出す、油断のならない唇だ。その唇がまた開いて、狙い澄ました一撃を放つ。
「加賀さんといるときも、こうなんですの?」
今度こそ、弾けるように身を引いた。――つもりだった。酔いの回った身体は全く思い通りには動かなくて、客観的に見ればただ、今日子が目を見開いて仰け反った、それだけのこと。
それでも狼狽は充分に伝わったらしい。彼女は嬉しげに、本当に楽しそうに微笑んで、離れようとする今日子の頬をまた撫でる。
「果報者ですわね、加賀さんは。こんなに可愛い貴女をご存知の方は、そうそういないのでしょうから」
細められた青い目の、底知れない輝き。狙いを読み取れないまま今日子は、ソファの端に追い詰められる。
「それとも、案外多いのですかしら? いかが?」
「……多いって、何が、」
「加賀さん以外に寝た相手は?」
「っ、」
アンティークドールのように完璧な美貌から、さらりと吐き出されるとんでもない台詞。言葉を失ってただ、その青い微笑みを見つめる。
急かすでも見下すでもなくにこにこと、ただ楽しげな彼女の視線に晒されて、数秒。反撃を諦めた今日子は素直に疑問を口にした。
「……なぜそんなことを、聞きたがるのかが分かりませんわ、」
「純粋に興味がありますの」
「私に、ということ?」
「正確には、貴女の身体に、かしら。あと、加賀さんの身体に」
「…………?」
眉を顰めて見上げれば、彼女は相変わらずおっとりと、端整な顔を綻ばせている。ペールブルーのドレスも手伝って、まさに天上の微笑み、とでもいうような。
「どういう、」
意味、と問いかけようとしたときにはもう遅かった。羽根が舞い落ちるようにふわりと、彼女が今日子の上に圧し掛かっている。清らかで軽やかで、そのくせ逃れようもない圧迫感。至近距離の青い瞳が、抵抗する気さえなくさせる。
「ね、いかがですの? 加賀さん以外には、何人と?」
「や、」
思わず顔を背けると、銀の鈴のような笑い声。
「そんな素振りをされたんじゃ、大抵の男性は陥落しますわね。しっかりものに見えますのに」
何でもないように言いながら、優美な右手が胸元を探る。白々と冷えた、器用な手が。
「っ!」
シャンパンゴールドの、てろりと柔らかなドレス。たっぷりとった胸元のドレープを押し退けて、冷たい手のひらが素肌を掴む。
「あらあら、そんなに緊張なさらないで?」
「なんて、ことを、っ……」
「申し上げませんでした?」
下着の縁へ指を潜り込ませながら、微笑む。
「貴女の身体に興味がある、と。……ああ、素敵なお召し物ですわね。よくお似合いですわ」
肩からドレスを滑り落として、露わになった胸元を見つめる。品のいいレースに縁取られた、ラベンダー色の下着。
「肌の色が、やはり私とは違いますのね。ね、ご覧になって?」
躊躇なく下着のホックを外し、零れ出た乳房を持ち上げて、彼女はくるりと瞳を上げる。
その手の、冷たく澄んだ白さの中で、今日子の肌は柔らかく、温めたミルクのようにほっくりと白かった。
「色も、感触もずいぶん、柔らかいんですのね……意外なくらい……」
とろりと指を沈めるように揉まれて、思わず強く目を瞑る。よく知った強引な、大きな手ではなく、冷たく優美な女の手。残酷なくらい丁寧に、器用に、重たい丸みを確かめようとする。
酔っている。こんな状況なのに、こんな異常事態なのに、冷えた手のひらは心地いい。思わず吐息を零しそうになって、必死で顔を背けた。もっとも、彼女の方は今日子の動きなど、気にも留めない素振りだ。
「サイズは、おいくつですの? D、か……いえ、E、くらいかしら?」
わざわざ日本式でサイズを数える辺り、こんな状況にあっても冷静な彼女の頭脳を思って、今日子は小さく唇を噛んだ。
これは恐怖だ。屈辱や怒りよりも、驚きや戸惑いよりも、快感よりも心地良さよりも、もっと明確に背筋を駆け上がる、怖さ。
「こんなに柔らかいのに、日頃からあれだけの形を保っていられるなんて」
さすが、今日子さんですわ、と、厭味とも感心とも取れる絶妙の口調で囁いて、彼女はその手を下の方へと滑らせた。ドレスの生地を押し退けながら、なぞる。脇腹の曲線、腰の丸み、それから豊かに張った尻。日本人離れした大柄な骨格を、滑らかに覆う如何にも日本人らしい肌。その下の薄い、柔らかい脂肪。自分自身でさえ時折酷く淫らだと思うその腰を、冷徹な仕草で撫でられて、反射的に身を硬くする。
「ああ、本当に全部、柔らかいんですのね……確かに、素敵でしょうね、」
貴女を抱くのは。
ふ、と顔を寄せて、揶揄するように囁く。耳元に触れる息の感触にぞくりと身体を震わせて、今日子は強く目を瞑った。
酔っている。こんな状態なのに、こんな危険な立場なのに、目の前の誰かに縋りついてしまいたくなる。
「ね、今日子さん、いかが?」
「なに……を、」
するりと脇腹を撫で上げて、今日子の目を覗き込む。
「どなたも皆、こんな風に仰いまして? 貴女を抱いた方は、皆?」
「……知ら、な」
「嘘はいけませんわ」
微笑むと、きゅ、と胸の先端をつまんだ。痛みを伴う強烈な刺激に、気を散らしかけていた今日子は短い悲鳴を上げる。
「教えてくださいな。以前は、何人と?」
「……や、」
「これだけ敏感な身体で、ずっとお独りということもありませんでしょう? いかがですの?」
冷たい手のひらでまた乳房の重さを量りながら、冷徹な目で彼女は笑う。時折先端を撫で上げる指先に、喘ぐような小さな声が漏れる。
「ほら、意地を張らないで。教えてくださいな」
口調は丁寧で、相変わらず穏やかで。そして酷く――怖ろしい。冷や汗にも似た湿りを背に感じながら、今日子は震える口を開いた。
「……ん、にん、だけ……」
「三人、ですの?」
「あ、……ん、」
一応、肯定の返事に聞こえたのだろう。ゆるりと瞳を細くして、彼女が頷く。
「加賀さん以外に、三人、ですのね?」
「ん、……っ、や、」
「どなたがいちばん、お上手でした?」
どなたが、なんて。そんな聞き方をする時点でもう、彼女は答えを指定している。悔しさと、それを上回る怖さに胸を塞がれて、今日子は強く目を閉じた。代わりのように唇を、開く。
「そんな、の……、」
「加賀さんですのね?」
「……って、……ん、なら、……あ、あっ」
「器用な方ですものねぇ。体力も、経験値も充分ありそうですし」
それが、どうしたというの。言ってやりたくても、それこそ器用すぎる指先に捻られて、思うように言葉を吐き出せない。
「あの方に勝てるなら、本望かも知れませんわ」
「……かて、る?」
ふいと手を離して、彼女は今日子に微笑んだ。冷えた指先を自分の口元に当てて、悪戯っぽく、少女のように。
「こう見えても私、負けず嫌いですから」
……何が、こう見えても、だ。一瞬思ったが、打ち消す。
確かに、見た目だけなら――中身を知らずに、一目見ただけなら――おっとりと上品で、いかにもたおやかで、他人と競うことなんてありそうもない。
「修さんには、もう勝てたはずだと思っているのですけど」
おさむさん、という言葉の意味が一瞬呑み込めなくて、潤み始めた瞳を今日子はぱちぱち瞬いた。直後、スゴウグランプリのオーナーを務める青年の姿に思い至って、ますます意味が分からなくなる。
彼と何を競おうというのだろう。現在は経営者だが、元は優秀なレーサーであった彼と、速度を? 馬鹿な。彼女は技術者であって、レーサーではない。
しかし、加賀を指して「あの方に勝てるなら」とも確かに、言った。加賀はレーサーだ。まごうことなく。ならばやはり、その速さを――?
「何を悩んでおいでなの?」
くす、と笑った彼女の両手が、今日子の熱くなった頬を包む。冷えた感触が一瞬、閃くような正気を今日子の中に呼び覚ます。
馬鹿な。速さの、訳がない。彼女は技術者だ。ならば恐らく、テクニックを。
――何の?
まさか。
「審判は、貴女が」
柔らかな、鮮やかな。較べようもないほど典雅な、美貌が。
滑るように今日子の視界を、塞いで。
「務めてくださいますわね?」
――そしてふわりと、唇を封じた。
◆
手先が器用な人間は、舌先も器用なのだろうか。くだらない疑問が額の裏側を掠め、表情に出せないまま今日子は笑った。
誇れるほどの数ではないが、比較出来る程度にはキスの経験もある。彼女のキスは、その誰とも似ていなかった。絡めるのでも奪うのでもない。「探り当てられる」。如何にも研究者らしい、彼女らしい巧さ。
――そもそもこんなコトに、優劣も巧拙もない。
そうは思うのだが、どうにも今日子の周りは負けず嫌いばかりで、正体すらない「昔の男」とやたらに競いたがるのだ。彼女は違う。負けず嫌いですから、とは言ったが、どこか違う。多分それは彼女が同性だからで、つまり、必要なのは今日子の過去を塗り替えることではなくて、今日子から取り敢えずの承認さえ奪えればいいというだけで……。
……駄目だ。自分が何を考えているのか、よく判らなくなってきた。
丁寧に探られ続ける唇の内側は酸素不足で、時折、ひゅ、と吸い込む希薄な空気だけでは到底頭が働かない。苦しい。朦朧とする意識を、言葉に変えて確認する。苦しい。気持ちいいのでは、ない。断じて。
そのはずなのに、いつの間にか腰骨の底が蕩けていて、今日子は無意識に太腿を擦り合わせていた。ふいと唇が離された隙に、あ、と名残惜しそうな声が出て、悔しさと羞恥に体温が上がる。
「本当に、可愛らしいこと」
これだけ長い口付けのあとだというのに、彼女の方は息一つ乱れていない。相変わらずの完璧な美貌。醒めた淡い瞳。完全無欠の、サディスティック。
「だいぶ、素直になってらしたようですわね」
瞳の温度は上げないままに、唇だけでにこりと笑って、彼女は冷たい手を今日子の太腿に滑らせた。駄目、と思う暇もなく、敏感な指先がするりと布地を確かめる。濡れた感触。思わず、強く目を瞑った。
「足りませんでしょう?」
キスだけでは。指だけでは。くすくすと楽しげな笑みを零して、彼女は今日子の我慢を無駄にさせようとする。駄目。まだ、酔っている。こんな状態なのに、こんな危険な立場なのに、もっと、とねだってしまいたくなる。
「ね、いかが?」
「……に、が、」
「意地っ張りですのね」
感心したように微笑んで、片手で今日子の頬に触れた。冷えたままの手のひら。残酷なくらい滑らかな、感触。
「気持ちよかったでしょう? キスが嫌いな女なんていて?」
「それ、は、」
好きな相手とするなら、だ。当たり前すぎる反駁さえ、うまく口から出てこない。微笑を崩さぬまま視線を少し近付けて、彼女が言った。
「加賀さんとするなら、でしょうか?」
「…………っ」
苦しい。いちいち彼の名前を出して、こっちの反応を探ってくる彼女が怖ろしい。
「やっぱり、キスだけじゃ勝てませんのね」
変に可愛らしい吐息を漏らして、残念そうに眉を下げてみせる。
「でも、最後まででしたらきっと」
「……んです、って、」
「あら」
うふふ、と悪戯っぽい笑い声を上げて、彼女は今日子の唇をついばんだ。
「申し上げませんでした? 私、あの方に勝ちたいと思っていますのよ」
違う。問題はそんなところじゃない。否定するより早く、今度は強く胸を掴まれて息を呑む。
「勿論、男性と同じようには出来ませんけど、」
薄い唇が囁く。美しすぎる曲線に、背筋が粟立つ。
彼女は技術者だ。人の手が出来ることと、出来ないことを、よく知っている。出来ないことを、どうすれば出来るかも、知っている。
「少しの創意工夫があれば……ね?」
嬉しそうに目を細めた彼女の手に、見たこともないグロテスクな器具を認めて。
今日子はふつりと、理性の手綱を手放した。
◆
「――――、っ!」
飛び起きた。勢いを受け止めたベッドが、ぽすん、と柔らかく弾む。突然開いた両目には、室内灯の柔らかな光も眩しかった。
ここはどこ、と考えるよりも早く、聞き慣れた声が名を呼んだ。
「きょーこさん、」
ほっとしているような、ちょっと焦ったような、複雑な発音。覗き込んでくる、光を弾く黒い瞳。
「……かがくん」
「大丈夫か? 頭、痛くない?」
「あたま……」
額に手をやる。二日酔いのような、鈍い痛みは確かにあったが、心配されるほどでもない。どうして彼がそんな不安そうな顔をしているのか、分からなかった。
「……だいじょうぶだと、おもうわ」
ほ、と息を吐いて、彼は彼女の手を取った。やけに熱い、大きな手。
「何か、飲む? 水でよければあるけど」
「……ここ、どこ?」
「ハヤトんち」
二秒ほど考えて、ああそうだった、と思い出した。同時に、冷たく微笑むアイスブルーの瞳のことも。ふっと体温が下がる。握った手から敏感にそれを読み取って、彼が心配そうに顔を覗き込んでくる。安心させるように笑ってみせて、一呼吸おいてから、訊ねた。
「クレアさんと、呑んでいたはずなんだけど」
「…………途中までは、そーだったみてぇだな」
実に複雑な表情で、彼が答える。気付かない振りをして続けた。
「潰れてしまったみたいね、私。彼女に、迷惑をかけなかったかしら?」
「あー、かけたかけた。んもうバッチリ」
「え?」
「私の服まで汚すほど吐くまで飲んで気分を悪くして……だとよ」
「え? え? うそ?」
「嘘じゃねーだろ。ホラ、」
ひょいと指差されて、目を瞬く。彼が指し示す先を、目線で辿る。彼の視線も注がれている、今日子自身の胸元の……
「…………!」
「あすかちゃんが持ってったぜ、服。手洗いだから安心してくれってさ」
ごく散文的な口調で言いながら、彼は視線を外す気配もない。無防備すぎた身体を今更毛布で隠しながら、今日子はきまり悪さに身動ぎした。
「いまさら隠すコトねーだろ」
「だって、」
図々しく胸元に近付いてきた額を押しやって、唇を尖らせる。その唇を器用に奪いにくる、彼の、唇。
あ。やっぱり、違う。触れた瞬間にそう思う。中まで探られるのを待たずとも、ふいと血液が熱くなる。
「……もう、こんな時間だし。寝ちまおうぜ、このまま」
唇を離した彼が囁いた。どんな時間なんだかさっぱり分からなかったが、今日子は素直に頷いた。元々、泊まるつもりで来ているし、こんな格好でホールに戻る訳にもいかない。当たり前のように臨戦態勢になっている彼だけがちょっとばかり可笑しかったが、この際、許してやってもよいだろう。
「クレアさんに、謝らないといけないわね……あすかさんにも」
「明日考えろよ、そんなこと」
「じゃあ今は、何を考えたらいいの?」
毛布の隙間に彼を迎え入れながら囁くと、エロいこと、と言って笑う。俺のコト、とは言わないところが彼らしい。
「あ、ねぇ、そう言えば」
「んー?」
額に唇を落とそうとしていた彼が、動きを止める。
「貴方、手をどうしたの?」
「……え?」
「右手。腫れてない? 何かぶつけたの?」
「……あー」
ちょっとな。まあいいじゃん、気にすんなって。もごもごと曖昧に呟いて、今度こそ額にちゅっと口付けられた。
「気にすんなったって、なるわよ、」
「明日考えればいいって」
もう、と反駁しかけた唇を、もう一回塞がれる。どうしても、エロいことだけ考えさせたいらしい。苦しくはないのに朦朧としてくる意識の隅で、やっぱり、好きな相手とするなら、だわ、と今日子は思った。
[09年8月]