水天一碧


 思えば彼女はいつも薄青い空気の層を纏っていた。何処か鮮烈な一重の目がレンズ越しの静寂を見据えると、薄青は氷の碧に変わって、瞳の向こうを鮮やかに切り取るようだった。
 僕がそんな事まで知っていたのはやはりいつも彼女を見ていたからで、いつも彼女を見ていたのは……やはり彼女が魅力的だからだった。
 祝福されてるのね。
 涼やかな風のように耳に快い声。素っ気無い乾いた口振り。
 もう一度思い出して、僕は少し笑った。窓の外に、青空が広がろうとしていた。


「屋上は立ち入り禁止って知らないのかしら?」
 爽やかな甘さを伴った声が、影と一緒に僕の視界を遮った。揶揄いの色を浮かべた細い目には見覚えがあり、僕は慌てて起き上がった。
「知ってるけど、いや……その」
 人影は僕の前に屈み込み、ん?と言うように首を傾げてみせた。真っ黒な髪が光を弾いてゆらりと光る。
「……御免」
 どうして良いか分からずに頭を下げると、影は小さく吹き出して、それから面白そうに僕の隣に腰を下ろした。
「謝る事ないでしょう。あたしだって、現にこうして無断侵入しているんだもの」
 侵入という言い方が如何にも物々しくて、僕もほんの少し笑った。何だか変わった子だ。
「変わってるわね、天川君て」
 ……先に言われた。
「そっちこそ。えっと──」
「赤坂よ。赤坂小麦。天川君とは正反対の名前ね」
 一瞬訳が分からず、僕はちょっと目を見開いた。赤坂は愉し気に笑った。
「天も川も碧も、みんな綺麗な青の名前じゃない。赤い坂と小麦のあたしと違って」
 そう言う赤坂の方が余程青というイメージに相応しい気がしたが、上手く伝える自信が無くて結局黙っていた。代わりに、取り敢えず訊いてみた。
「キヨシって、能く読めたね。名前まで知ってるとは思わなかった」
「凄く綺麗な名前だと思ったから覚えてたのよ。天川君はあたしの名前覚えてくれてなかったのね。クラス替えから、もう一ヶ月なのに」
「まだ一ヶ月、だろう」
 言ってから、弁解がましくなかったかと後悔が頭を掠めた。ちらりと赤坂の方を見やると、別段不快に思った様子は無い。
「一ヶ月も同じクラスにいるのに、口利いたこと無かったわね」
 赤坂はスカートを翻して立ち上がった。見上げている訳にもいかないので、僕も慌てて立ち上がる。
「まあ、それは赤坂だけに限らないけど」
「天川君、あまり女の子と話さないものね。どうして?」
「別に」
 反射的に答えながら、僕は初めて赤坂の抱えていた物に気が付いた。なかなかお目にかからない、一眼レフという代物だ。
「女が嫌いとか苦手ってわけじゃ無さそうだし。勿体無いわよ」
「どうってこと無いさ」
「大した自信ね」
 屋上の縁に歩み寄り、カメラを掲げて真っ直ぐ構える。一連の動作は滑らかで、ひどく恰好良かった。
「カメラ、自分の?」
「写真部なのよ、あたし」
 答えになっていない。赤坂は僕のことなどお構い無しというように、真剣な面持ちでカメラを覗き込んだ。

 一瞬空気の流れが止まる。触れたら切れそうに鋭い表情に、僕は思わず息を殺し、そして赤坂はシャッターを切った。

 ふっと風が甦る。

「ここが好きなの。もっと言うと、ここから見えるものがね」
 視線を追うと、水田の横に延びる通学路が見えた。数人の男子生徒が、ふざけながら歩いている。
「良く来てたんだ?」
「一年の頃から」
 大切そうにカメラを抱きかかえながら、赤坂は僕を振り返った。
「此処はあたしの場所だと思ってたし、誰かが来ると厭だったわ。でもね」
 言葉を切って、少し笑う。
「天川君は似合ってる。こんなに空が青いもの」

「そら?」

 僕が上を見上げた瞬間、赤坂は身を翻し、片手を挙げて言った。
「じゃあね、天川君! また明日!」
「ちょっと、赤坂……」
 光を撒き散らしながら、細い身体が遠ざかっていく。
「…………」
 変わった子だ。
 僕はもう一度小さく笑い、改めてごろりと寝そべった。


 天気の良い日は、気が向いたら屋上に行ってみる。別段意識して通った訳ではなかったし、赤坂の方も多分そうだっただろうから、屋上で話をするのは精々月に二度くらいだった。
「暑くないの?」
 来るなり赤坂はそう言った。十月とはいえ、日に晒されていたコンクリートは温かい。その上に冬服を着て寝転ぶのだから、確かに涼しい筈は無い。
「暑いけど」
「じゃあどうしてそんな恰好してるのよ。分からない人ね」
「空が見たいからだよ」
「脱いだら? 冬服」
「やだ」
「どうしてよ」
「面倒臭い」
 続いた沈黙の後に、莫迦、と呟いているような溜め息が聞こえた。僕は敢えて無視した。
「カメラは?」
「無いわ」
「え?」
 僕は起き上がった。赤坂がカメラ無しで屋上に来るなんて、今までには無かった事だ。
「どうしてさ?」
「今日は写真を撮りに来たんじゃ無いのよ。天川君と話をしに来たの」
「僕と?」
 赤坂はいつも通りの涼やかな声で言った。
「天川君て彼女がいたのね。初めて知ったわ」
「……ああ」
 そう言えば前回会った時には何も言っていなかった。付き合いだしたのはごく最近のことなのだ。
「そうだけど。それが、どうか?」
「悪いことしてたかしらって。偶にとは言え、女と二人で話してるなんて」
 僕は正直驚いた。こんな俗っぽい気の遣い方、全然赤坂らしくない。
「でも、まあ、その程度で怒るような彼女じゃ大したこと無いわね」
 今度の一言は完全にいつも通りの赤坂だった。
「そんなことを言いにわざわざ来たわけ?」
「刺の在る言い方ね」
「そりゃ、僕だって自分の彼女は庇ってやりたいからね」
 ちょっと肩を竦めてみせると、赤坂は揶揄うような笑顔を見せた。
「赤坂の方はどうなのさ」
「何が?」
「惚れたとか惚れられたとかさ。そういう話、聞かないから」
「仕方ないわよ。今のところいないんだもの。そうね、強いて言うならジャン・コクトーとか」
「そんなの強いて言わなくても良いよ」
 こういうところが赤坂だ。僕は急に安心した。やはり心配だったのだなと思った。
「今日も、空が綺麗ね」
「秋晴れってやつだね」
「秋なんていっていられるのも、もう少しだわ。冬も入試も直ぐに来るのよ」
「……そうだね」
 突然、当たり前の話に胸を衝かれた。珍しく会話が途切れ、そして暫く再開しなかった。
 どんな道であれ、僕等は新しい生活を選ばなくてはならないのだ。あと何回、こうして空を見上げられるだろうか。
「……あたし、帰るわ。話すことは話したし」
「ああ。気を付けて」
「じゃあね、天川君! また明日!」
 また明日。
 遠くなる足音を聞きながら、僕はゆっくり呟いてみた。
 空の高さが、深まっていく秋を告げていた。


 それなりに順調だと思っていた大学受験は、随分あっさりと片が付いた。
 前期出願のK大からも、後期出願のH大からも、受験票の代わりに届いたのは一枚の紙切れだった。
「宇宙工学科の受験には、大学入試センター試験地理Bの成績が必要です。」
 受験番号の記入ミス。──あまりにもありがちで致命的なことだ。
 その時点で、僕の進学先は私立のC大に決まってしまった。春というにはあまりに早い、二月の半ばのことだった。


 それからも、もう半月が経つ。大分立ち直ってはいたけれど、それでも僕は小さく溜め息をつかずにはいられなかった。
「C大ですって?」
 声に振り向くと、赤坂が立っていた。胸のリボンがひらひらと風に揺れている。
「赤坂は……F芸?」
「ええ。受かったのよ。幸いにね」
 幸い、なんてことは無い。写真に限らず、赤坂の手から生まれるものはみな何処かしら人を惹きつけるものを持っていて、素人の僕にさえ才能という言葉を実感させた。美術に携わる人間なら、是非赤坂を育ててみたいに決まっている。
「階下に居なくて良いの? みんな、赤坂と話したがってると思うけど」
「騒ぐのは後でも出来るわ。あたしは屋上に来たかったの。空がまだ青いうちにね」
 赤坂は手すりに寄り掛かり、ちょっと笑って僕を見た。
「随分、遠くに行くことになるのね」
「本当はK大に行きたかったんだけどさ。まあ仕方ない」
「そうね」
 下手に慰めたりしようとしない辺りが、また赤坂らしかった。
「来年、また目指すっていう手も在るわよ」
「そんな余裕無いんだよ。弟が二人支えてる」
「そう……」
 沈黙が春の匂いに溶ける。風がまた赤坂の胸のリボンを揺する。祝卒業という文字が、やけに目に痛かった。
「正直言うと、心細いんだけどな。遠いし──僕以外、誰も行かないしな」
 独り言のように言うと、赤坂の手がとんと僕の背を叩いた。
「大丈夫よ。天川君だもの」
「そりゃまた無責任な──」
「心配することないわ。ほら、今日もこんなに空が綺麗で」
 僕は空を見上げた。春独特の、柔らかい、そしてその分ひどく切ない、美しい青空が広がっていた。
「確かに、綺麗だ……」
「天川君は、青に祝福されてるのね。だから大丈夫なのよ。きっと」

 祝福?

 耳慣れない言葉に振り向いた時には、赤坂は既に階段を駆け降りていた。
「行かないの? LHR始まるわよ!」
「直ぐ行く!」
 僕は立ち止まり、もう一度空を見た。
 痛いほど、怖いほど、綺麗な青空だった。


 窓の外は一面の青に変わった。
 太陽の輝く空の色と、光にきらめく海の色と。遠く遠く水平線の彼方で、二つの碧がふわりと融けて揺れている。
 だから大丈夫なのよ。きっと。
「──きっと、」
 僕は目を閉じた。
 青に祝福されたこの世界に、僕は存在している。
 新しい生活も、きっと──。
 僕を乗せた飛行機は、ゆっくりと高度を下げていく。誰にも気付かれないように微笑んで、僕は静かに目を開けた。

[09年7月]