あおい・せかい


「うわぁ! すっごい青ーい!」
 はしゃいだ声に、フィル・フリッツは視線を上げた。
 いつの間に雲の上に出ていたのだろう。外は一面の青に染まっている。
 丸く切り取られた窓に額をつけて、きゃっきゃと楽しげな声をあげているのはまだ、ハイスクールも出ていなさそうな少女たち。
 あ-お-い。唇に昇ったその形容詞を日本語のまま呟き直して、外に溢れる眩しい青を見つめた。


“チャンピオンになりたくはないか”。
そう聞こえた。聞き違いではなさそうだった。性質の悪い冗談だと思ったから、咄嗟に眉を顰めてしまったのだけれど。
あからさまな警戒の態度に気を悪くするような様子も見せず、目の前の男は静かに続けた。
 あのアオイで走ってみたくはないか、と言えば、少しは考えてもらえるのかな。
――抜群の知名度と実績を誇る固有名詞が、僅かにフィルの心を動かした。
 ……詳しい話を、聞かせてもらえますか。
探るように投げ返した声を受け止めて、男は初めて少し、笑った。

フィルに初めて日本語を教えてくれたのは、だから、名雲京志郎だということになる。
ア-オ-イ、という母音の連続は日本語特有のもので、自分の肩書きとして名乗るには、あまりしっくりこないものだった。
アオイ、アオイ、とぶつぶつ繰り返していたら、不意に彼が振り向いて言ったのだ。
 憂鬱かね?
え、と目線を上げると、黒い瞳と目が合った。笑ってはいない。けれど微かに、面白がってはいるような。そんな瞳。
 あおい、という日本語は、つまりblueを意味する形容詞だからね。
 ……創業者の名前だって、聞きましたけど。
半疑問になった反論は否定されなかった。代わりに、彼は立ち上がって、フィルの目を覗き込んだ。
 日本語の「青い」はね、英語が言うところのblueよりもずっと、表す範囲が広いんだよ。 古来は、目立たない色全般を指したというくらいだからね。君のこの瞳だって、
言いながら、冷えた指がすいと下瞼に触れる。覗き込んでくる黒い瞳。
 日本語でだったら、「青い瞳」だと言われるだろうな。
 ……violetも「あおい」んですか。
 もちろん。greenもindigoも、grayやblackまで含まれることさえある。
 じゃあ、あなたの目も「あおい」?
 残念だが、blackを「青い」と形容するのは、今では馬の毛色だけに限った話になっているものでね。
――意外だった。必要なことしか話さない男だと思っていたのに、こんな質問にも乗ってくるなんて。
初めて、興味を引かれた。得体の知れないこの男に。
 あなたはさっき、
指が離れるのを目線で追いながら、疑問を口にする。
 憂鬱、と言いましたね。日本語でも、ブルーは憂鬱なイメージ?
 ……そうか、君は、絵を描くと言ったね。色彩には興味がある、か。
ふと目を細くする。やはり笑ってはいない。けれど、面白がっているのが今度は、はっきりと判った。
 憂鬱の意味は、blueという音と一緒に輸入されたらしい。 日本語化した「ブルー」には憂鬱のイメージがあるが、「青い」という語にはない。
 じゃあ、「あおい」はどんなイメージ?
 そうだね、
黒い瞳が、微かに細くなった。探るように視線が中空で揺らぐ。
 澄んだ――爽やかな――涼しい――冷たい――鬱蒼とした――血の気のない――
低く艶のある声が、平凡な形容詞を羅列する。
 純粋な――誠実な――清い――若い――幼い――未熟な――向こう見ずな――
言いながら、ふと唇が笑んだ。微かにだけれど、確かに。
 ……ああ、いいね、未熟で無謀な計画には、確かに「あおい」という形容詞が相応しいのかも知れない。
思わず、瞬きをして彼を見た。
厭味なくらいに落ち着いた、傲慢なほど自信に溢れた佇まいなのに。
なのに自身の計画を、未熟で無謀で、向こう見ずだと言っているのだ。この男は。
 いいとも、驚かせてやろう、
目線を合わせて、彼は笑った。そう、今度こそ、確実に。
 「青天の霹靂」といこうじゃないか。
細められた黒い瞳の内側に、深く青い空を見たような、気がした。


 どんな思いで、いたのだろう。 アルザードとフィルを、そして自分自身を含むプロジェクトを、未熟で無謀で、「あおい」存在だと言って笑った。
 狡猾で倣岸で、冷徹で酷薄で、――けれど今、瞼の裏に浮かぶ彼は、影を纏ったような薄青い後ろ姿なのだ。
 目を閉じる。窓の外の青が歪んだ残像になる。アオイ、あおい、あをい、青い、どこまでも続く、底無しのブルー。
 成田まではまだ十数時間。到着まで、目の裏の青は残っているだろうか。 そして、迎えに来てくれた今日子の目に、彼の抱えている残像は見えるだろうか。
 ――かつて彼女を愛した男の、痛いくらいに青い姿が。

 フライトプランを告げるアナウンスが始まる。
 ゆっくりと開いた薄紫の瞳に、目映いほどの青空が弾けた。


[2011年1月]