うさぎ、うさぎ
そっちに行くわ、と、今日子が誰かに応える声が聞こえた。加賀は手元に落としていた視線を上げた。
作業に伴う騒音が常に溢れているガレージ内。
それでも今日子は、自分を呼ぶ声を聞き逃したりは決してしないし、逆に、今日子の声が相手にうまく届かないということもない。
張り上げなくてもよく通る声なのだ。そして、何もしなくても自然と人込みが分かれて道が出来るような、圧倒的な存在感。
陳腐な比喩だと自覚しながらも、自分の恋人は花のようだ、と加賀は思う。
贔屓目だろうか。冬枯れの野にあってもきっと、彼女の周りには白い光が満ちているだろうと思うのだ。そこだけ花が咲いたように。
ガレージの入り口に向かって、その今日子の足音が移動していく。視線で追う。眩しい。
入り口から入り込む光が邪魔なのだ。少し目を細める。
「……?」
幾つか、見慣れない人影があるのが分かった。癖のないスーツを着た眼鏡の男と、まだ少女と言ってもよさそうな若い女。
天使の輪の浮いた茶色い髪が、卵形の小さな輪郭を縁取っているのが見えた。
ちょっと背筋を伸ばして覗き込んでみる。
線の細い、小柄な娘だ。白いモヘアのセーター。はしばみ色の、スエードのブーツ。
小さく形良い唇は艶やかな桜色で、やや垂れ気味の大きな目が、あざといくらいくっきりとした睫毛で飾られている。
――視線が噛み合った。ほんの一瞬。
そう、一瞬だけだ。その目線はすぐに加賀から逸らされて、そして主に今日子に向かった。
声は聞こえないが、やりとりは和やからしい。時折、今日子が笑顔を見せる。眼鏡の男が頻りに頷いている。
やがて少女の影は今日子にぴょこりと頭を下げて、走るようにして遠ざかっていった。
残っていた眼鏡の男と二言三言交わしてから、今日子がこちらに戻ってくる。目が合って、今日子が口を開いた。
「どうかしたの?」
よく通る、声。さりげなさと自信に満ちた口調。
血眼になって探しても、特別扱いの欠片さえ見つけられないような。
「さっきの、誰」
「見てたのね」
くす、と小さく笑う。長い睫毛が彫りの深い顔に華やいだ影を落としている。
「仔兎みたいでしょう」
「は?」
「だから、さっきの子。仔兎みたいでしょう」
思わず今日子を見る。
煌びやかなのに凛とした、時には楚々としてさえ見える眼差しは、加賀の目にはやはり花のように映った。
「白くて、ちっちゃくて、可愛くて。思わず手を伸べて、抱き上げてみたくなるタイプ」
反応出来ずにいる加賀に悪戯っぽい視線を向けて、続ける。
「だと、思わない?」
「……だから子ウサギみたいだって?」
「ええ」
「あーいうのが好みだったっけ?」
「ないものねだりは自覚してるわ。悪い?」
涼しい顔で嘯く。
長い睫毛。滑らかな頬。咲き誇る白い花のような、横顔。
「いんや、別に」
「貴方は? 好みじゃない?」
「フツー」
「気に入って見てるのかと思ったのに」
「……なんで残念そーなんだよ」
「いいえ、別に」
加賀の台詞を真似てみせて、笑う。何気なく、親しく穏やかに。
今日子が加賀に向ける態度はいつも変わらない。
友人同士だった頃も、恋人同士になってからも、そしてつい先日、その事実をゴシップ紙にすっぱ抜かれた後でも。
「ま、問題にならない程度に仲良くやって頂戴。来期は、彼女がマスコットギャルを務めてくれるから」
「……あー、アレが代理か」
スキー旅行に出掛けて不幸にも左足を骨折したという前任者は、肉感的な印象のある長身の娘だった。
彼女の代理にしては随分イメージが違う。
「貴方のファンらしいわよ。事務所で契約書類を見てもらうだけでもよかったのに、わざわざここまで挨拶に来たのは、
ちょっとでも貴方の姿を見られやしないかと思ってのことなんですって」
あの眼鏡から聞かされたのだろう、今日子はからかうようにくるりと目を回した。
「……なんで今度は嬉しそーなの?」
「あら、うちのドライバーにファンがたくさんついてくれるのは喜ばしいことよ」
「……ホントかねぇ」
思い出しながら呟く。
子ウサギのような。白いモヘアのセーター。桜色のグロス。一瞬だけ噛み合った目線と、その中に閃いた感情。
――加賀のファンだというのは確かに嘘ではなさそうだ、が。
「信じないの?」
「いや、あんたじゃなくて。あの女」
「え?」
白くて小さくて可愛くて、大人しくて優しくて愛らしくて、無邪気で無防備でか弱い、子ウサギみたいな女の子、だなんて。
「たぶんちょっと、違うぜ」
「何が?」
「俺に会いに来たワケじゃねーよ、ホントは」
「…………じゃあ何なの?」
あざといくらいの可愛らしさ。やや垂れ気味の大きな目が、一瞬だけ見せた、表情。
感情。子ウサギの皮の、内側。
「んー、会いに来たっつーよりか……」
躊躇っていると、軽く肩を竦めた今日子が勝手に続きを引き取ってくれた。
「見物に来た、ってとこかしら?」
「……そんなもんかな」
そう、見物に来たのだ。そして同時に、自分を見せつけに。
自分の魅力を充分に知っている女だけが出来る、自信と余裕で巧妙に媚を包み込んだ目付き。
零れ落ちそうに大きな目。瞬時に男を値踏みして、そして勝利を確信する。過信も誤信もありえないと言わんばかりの断定的な結論。
「それにしては、あんまり貴方のこと見てなかったわよね。ちゃんと私の目を見て挨拶してくれてたし、話してる分には、
しっかりしたいい子だと思うんだけど」
その通りだ。ほとんど加賀を見なかった。値踏みの済んだ、その一瞬以降は。
あとはずっと、今日子を見ていた――そう、今日子を。巧みに無邪気さを装った、攻撃的で冷ややかな目線で。
見物に来たのだ。自分の狙う獲物をではなく、その獲物を既に支配下においている、至って平静なライバルの方を。
「……ウサギってさ、野菜とか草とか喰うけど」
「?」
「花も喰うんだよな」
「……何それ?」
「別に?」
気のない素振りで答える。今日子が怪訝な顔をする。不快そうに眉を顰めても、それでも花のように眩しい、白い顔。
ま、お手並み拝見と行きますか。
子ウサギを装う彼女に、心のうちで呟きかける。
いずれ思い知るんだろうよ、――高嶺の花を食い荒らしたところで、花に成り代われるワケでもないってこと。
思わず口元に浮かんだ笑みの意味合いは、きっと今日子には解らないだろうと、加賀は思った。
[2011年1月]