かけのぼる
彼らの高校は、坂道の上にある。
自転車通学を選ぶのは、だから余程の猛者か被虐趣味者と看做され、原付免許の取得が許される頃には、自転車置き場には隙間風が吹き過ぎるような有様になっているのが常だった。
その高校に3年間、葵悠一郎は自転車で通った。朝は全力で。夜は全速で。
2年生の秋頃、自転車には荷物が増えた。名前を行田早紀という。
50kgにぎりぎり満たない程度の体重を、朝晩背中に貼り付けて、悠一郎は坂を駆け上がり、もしくは坂を駆け下りた。
毎朝毎晩。毎日毎日。自分より少し低い体温と、平静な呼吸と手厳しい批評。
数えてちょうど、300日。
高校最後の朝が、来た。
「葵君、」
早紀が呼ぶといつも、自分の名前は漢字で「聞こえる」。端正で静謐な、整った姿かたち。
滑らかな声の所為か。平板な口調の所為か。早紀の紡ぐ言葉はつるりとしてそれでいて冷たくて、透き通ってはいるが儚げではなくて、よく磨かれた水晶のようだ、と悠一郎は思う。
耳の奥までころころと転がり落ちて行くような冷えた丸さ。その声でまた、早紀が呼ぶ。
「聴いているの、葵君」
「聞いてる、」
駆け上がる。長い坂道を、自転車で。沈んでいく夕陽に向かって。踏みしめるペダルは重く、抑え付けるハンドルが軋み、食いしばった奥歯がぎち、と鳴る。
「どこに行くの」
「上、」
「どうして」
「さあ、ね、」
ぎいい、ぎいい、と坂道を上る。気持ちだけはまだ、駆けている。額から汗が零れ落ち、風圧に負けてこめかみへ滑る。
「打ち上げ、行かないの」
「行かない、」
「行きたくないの」
「どうでもいい、」
「そう」
静謐な呼吸。学ランの背中に貼り付いた体温。きしりと留めた襟元が暑い、けれど、この学生服も今日限りだ。
「すごい夕陽」
「ああ、」
「沈んじゃうわね」
「すぐ、だ、」
「追い付けないわ」
「わかってる、」
「それなのに」
つるりと冷たい、丸い声。
「どうして、走るの」
「……わからない!」
頂上へ。街中が一望できる、頂上へ。息を切らして駆け昇って、きゅっと音を立ててブレーキを握って。
「――きれいね」
「綺麗だな、」
「葵君、」
「ん?」
「追い駆けたいものは、見つかった?」
「………」
背中から、声。耳元を通り過ぎて、夕焼けの街並みに向かって飛んで、舞って、落ちて。
「…見つかった。」
「じゃあ、追い駆けたらいいわ。誰に遠慮することもない」
着古した学生服の、肩から、襟から、薄れた背から、染み込んで。
「あなたはあなたがいちばん大事、でしょう」
「……その通りだな」
「どこを受けたの」
「H大。経済学部」
「似合うわ」
「そう?」
「楽しみ?」
「うん。楽しみだ」
「……よかったわね」
「…うん」
沈んでいく夕陽を見ながら。
明日からはもう、この坂を駆け上ることもないのだな、と、悠一郎は初めて気付いた。
[2013年3月]