呼んで
わたしがついててあげなけりゃ、ダメな子だと思ってた。
とろくて無口で泣き虫で、そのくせ頑固で負けず嫌い。
顔立ちこそそっくりだけど、ちっともわたしと似てなくて、頼りなくて可愛い妹。
――そうだと、ずっと思ってたのに。
「アオイさんてさ」
不思議な色の瞳を瞬かせて、アルマさんがわたしの顔を覗き込んでくる。
「本当に藍羽さんと似てるよね。ちっちゃい頃って、もっとそっくりだった?」
「ちょっと、アルマさん。わたしだって『藍羽さん』よ」
「あ」
そっか、と目をぱちくりさせて、それから少し考えて、アルマさんは困ったように首を傾げた。
「……でも、藍羽さんを藍羽さんって呼ぶのに慣れちゃってるから、なんかその辺、使い分けられる気がしないや」
「ルリって呼んであげたら? その方が、恋人同士らしく聞こえていいじゃない」
「こっ、」
ばっ!と顔が真っ赤になる。背もすごく高いし凛々しい感じのハンサムなのに、こういうところが可愛らしくて、いいな、なんて思う。
ルリが羨ましい。こんな風に、特別に思われているルリが。
ずっと、頼りない妹だと思ってた。
……「頼りない」ってのはおかしいかな、頼る気なんかなかったんだから。
嫌いだったわけじゃもちろんないし、むしろすごく好きだったけど、それでもときどきイライラした。
歩くのが遅い。食べるのも遅い。喋るのが下手で、なかなか言いたいことが伝わってこない。
ちょっと目を離すとぼーっとしてて、何か一緒にしようとしても、わたしの方がずーっと先に終わってしまう。
だから、わたしがついててあげなきゃダメなんだって思ってた。
わたしが側にいてあげるからルリは可愛い子でいられるんだって、なんとなくだけど確信していたのだ。
でも。
ひとりで、何もかも背負っていかなくてはならなかったのはその頼りない妹の方だった。
わたしがあの青い石の中で、何も見えず何も言えず身動きひとつ出来ないままでいる間、
両親の葬儀を済ませ藍羽財団の権限を引き継ぎ、わたしを目覚めさせるための手段を模索しなくてはいけなかったのはルリだったのだ。
変な言い方だけど、石の中でずっとわたしは心配だった。
わたしがいないのにルリが、うまくやっていけるなんてとても思えなかったから。
けれど、ルリは変わった。
……変わったんじゃなくて、本当は元から、そうだったのかも知れない。
頑固で意志の強いところはそのまま、ルリは言いたいことをはっきり口に出すようになり、素早く決断して命令を下すようになり、そして、滅多なことでは泣かなくなった。
遠く水の底から聞こえてくるように石の中に伝わってくる声が、少しずつ力強く、凛々しく頼もしくなっていったのを、わたしは覚えている。
悔しいようなもどかしいような、ほっとしたような誇らしいような、複雑な気持ち。
気負って無理をするルリを休ませようとする鏡の声に、ルリが「アオイだったら、こんなことで挫けたりはしないはずだから」って答えてくれるのが、
本当はすごく、嬉しかった。
ちゃんと目が覚めて、ちゃんとルリに会って、ごめんねって言えたことが、嬉しかった。とても。
そう、ルリは変わった。
あんなに似ていたのに、口さえ開かなければしょっちゅう互いに間違えられたのに、5年間眠っていた間に、ルリとわたしの見た目はずいぶん離れてしまった。
頭一つ以上高いところにある目線も、長く伸びた髪も、柔らかく丸くなった体も、なんだか眩しくて羨ましかった。
……鏡とも、すごく離れてしまった。
石越しに聞こえてくる声が、少しずつ低く、大人の男の人の声に変わって行って、それがすごくわたしをどきどきさせていた。
目を覚まして5年ぶりに見る鏡は、ずいぶん背が伸びて、頬の丸みが落ちて、きょとんとしていた瞳がすらりと涼しくなっていて、不思議なくらい、遠かった。
「そうだ、」
何か思いついたみたいに、アルマさんがぴょこんと背筋を伸ばす。
「ねえ、鏡って君のこと、『アオイお嬢様』って呼ぶだろ。藍羽さんのことは『お嬢様』なのに。
あれってやっぱり、何か特別だったりするのかな」
「特別?」
「だって、ほら、……名前を呼ぶのってさ、結構、照れくさいし」
「アルマさんだって、わたしのこと『アオイさん』って名前で呼ぶじゃない」
「…あ」
そっか、なんだ、別に特別じゃなかったんだ、ともにょもにょ呟いて、それからアルマさんは少し黙った。
「……でもさ、」
「なに?」
「やっぱり鏡って、……なんか、特別な何かがある気がする。アオイさんと、……藍羽さんにも」
「気のせいよ」
笑って打ち消す。そっけなさすぎたかな、と思って、一言付け足す。
「けっこう神経細いわよねー、アルマさん。体がそんなに大きいわりには」
「……アオイさんて、鬼瓦と気ぃ合うだろ」
ふふーん、と笑ってやって動揺を誤魔化す。
不思議な人。とんでもなく鈍いように見えて、実は時々、鋭いみたい。
5年間。
ルリは変わった。鏡も変わった。
ひとつだけ変わらなかったのは、鏡がルリを見る眼差し。
子どもの頃からずっと、鏡はルリに優しかった。
わたしは鏡に突っかかるから、向こうも突っかかり返していただけなのだろうと今ならちゃんと分かるけれど、5年前にはそれがわたしには分からなかった。
今、ルリにはアルマさんがいるのに、鏡はやっぱりルリに優しい。ルリにだけ優しい。
もう、わたしに突っかかったりはしないけど、ルリとわたしは厳然と違う。
わたしのことは「アオイお嬢様」、ルリのことは「お嬢様」。
5年分の、気持ちの距離の差。本当はいつも、少し苦しい。
それでも。
「アオイお嬢様」って呼ばれるのは、今は結構、嫌いじゃない。
代わりじゃないって分かるから。
わたしはアオイで、ルリじゃないって分かるから――
そういう風に鏡はちゃんと分かっているんだって、
わたしは昔のルリの代わりなんかじゃないんだって、
鏡がずっと片想いしてきた相手の代わりなんかじゃないんだって、
ちゃんと、わたしに分かるから。
5年間。
わたしが追い付けなかった分だけ待って、今のルリみたいに大人になれたら、いつか、特別に思ってもらえるだろうか。
アルマさんがルリに、ルリがアルマさんに見せるような、特別な笑顔を交わし合えるようになるだろうか。
だからそれまで、何度でも、
――何度でも、わたしの名前を呼んでほしい。
今はまだ、特別じゃなくても、いいから。
[2011年10月]