受け止めて。
湯は無色透明なので、沈めた自分の身体がよく見える。少しばかり低めのその温度の中でも、丁寧に鍛えてきた身体はしなやかで、自分自身でさえ感心してしまうくらい完璧だった。
全く何の問題もない、はずなのに。
「〜〜〜あああぁぁ」
唐突に低い呻き声を上げて、ざぶん!と湯の中に頭を突っ込む。ぶくぶくと浮き上がった泡が弾けて消えて、数秒。
塩気を帯びた温泉の湯にたっぷりと濡れた加賀が、勢いよく顔を出した。
「っぷはぁ! ちっくしょう!」
何に向けてともとれない八つ当たりめいた台詞を口にして、池に落ちた子犬のように頭を振る。珍しく完全に解かれた長い髪が乱れて、びちり、と自分の頬を打った。また小さく、ちくしょう、と喚いて天を仰ぐ。
誰かが見ていたら気でも触れたかと思うところだが、夜明け前の薄暗い露天風呂には彼一人。何の遠慮も会釈もなしに悶絶は続く。
何のことはない、浮かれ過ぎて呑み過ぎて酔いつぶれて寝たところが、明け方近くなって猛烈な頭痛に襲われて、居ても立っても居られずに浴場まで逃げ出して来たのだった。要するに二日酔いである。それも相当、強烈な。
元来酒には強いから、こんな風に酷い酔い方をすることは滅多にない。ましてや、旅先でなんて。
ったく、らしくもねぇ。なんだってこんなことになっちまってんだよ。
自分自身にぼやいてみるも、本当のところでは分かっている。
独りだけだったら、或いは二人きりだったら、こんな風にはならなかったはずだということを。
*
季節外れの慰安旅行は、太平洋に臨むひっそりとした温泉街だった。
なんで真夏にわざわざ温泉?とぼやく数名を、暑いからこそ湯上りのビールが旨いんです!などと丸め込んで決行された2泊3日の小旅行。
勿論、オフシーズンに行った方が安いからに決まっているのだが、昼は海で遊べるし、夜は夜で大きな湯船を貸切状態に出来るし、で、順応性の高いスタッフたちは皆、なんだかんだで楽しんでいるらしい。
賑やかなことは大好きだ。誰かと一緒に居ることも。
けれどそれが時々苦しいのは多分、側に居るのに触れられない、一緒に居るのに独占出来ない、微妙な距離感を思い出させるから。
職場には着て来ない優しい色合いのワンピースも、仕事中には出さないゆったりとした物言いも、彼を相手に愚痴をこぼす時には見せない、微かにはしゃいだ華やいだ酔い方も、どことなく甘くて、苦い。
乱れた浴衣の裾からちらちら覗くふくらはぎが眩しくて、しかもそれに目ざとく気付いた他の男どもが鬱陶しくて、らしくもなく、変に調子に乗った呑み方をしてしまったのだ。
これじゃまずいと思った時にはもう遅くて、意識と身体が連動しない状態になっていた。で、予想通り、この頭痛だ。
「……う〜」
呻く声も、遠く波の音に消えていく。海沿いならではの潮の香りと、塩分を強く含んだ湯から立ち上る湯気の匂い。塩気がアルコールを洗い流してくれればいいのに、と思いながら、何度も何度も湯を被る。
ひったくるようにして持ってきた烏龍茶のボトルを口に突っ込んで、息も吐かずに飲み干した。――それでもまだ、目眩がする。
「ったく、ホント、らしくもねーよ……」
情けなさに顔を覆う。親に感謝すべきか、容姿的にも体力的にも恵まれている自分の身体が、こんなにも憎らしいのは珍しいことだった。
いや、憎らしいというより、不憫なのだろうか。
「……かわいそーに」
自分に、……XY染色体の持ち主としての自分自身の象徴に、思わず語りかける。
「出番も活躍の場も、全っ然ねーもんなぁここんとこ。……1年以上」
うわぁ。自分で言っといてちょっと落ち込んだぞ俺。いいのかこんなことで? いいのか?
1年以上! ずっと何の進展もない不毛な恋の病に溺れ続けて、コイツにも他の女にも全く何のチャンスも与えないなんて、ホントにそんなんで、いいのか?
「…………」
一応考え込んでみるが、答えはとうに決まっている。――そうでなきゃ、そもそも1年もこんな状況に甘んじている訳がない。
身も心も捧げてしまうことに決めていた。夢に見るくらい。幻を抱くくらい。居るはずもない側に、彼女の声を聞くくらい――
「……よ、ちゃんと目は覚めてるから」
――え?
それこそ、幻聴かと思った。くすくす笑いを含んだ、上機嫌の彼女の声。
んな、バカな。来るはずがない。
夜明けの気配すらまだ訪れない、薄暗闇の露天風呂なんて。
というかそもそも、こっちは男湯じゃ……
「ここから夜明けが見られたら、きっと素敵だと思わない?」
さっきよりもずっとはっきりと。嬉しげに弾む、聞き慣れた声。
そんな、バカな。
でも、この、声は。
幻聴じゃないとしたら、本当に、彼女が――
恐る恐る、振り向いた。
後ろを向いて誰かに話し掛けていた彼女が、ちょうどこちらに向き直ったところだった。
水音まで、完全に止まってしまったようだった。
一分の隙もなく目が合った。
大きな目が、張り裂けそうなくらい見開かれるのを見た。
胸元のタオルを押さえていた手が戦慄いて、色が変わるくらいぎゅっと握り締められるのを見た。
彼女の唇が震えて、それから大きく開くのを、見た。
「……か、」
うわぁ! ストップ!
言葉が出るよりも早く、身体の方が意識の言うことを聞いた。
水飛沫を立てて立ち上がり、半歩彼女の方へ踏み出す。くらりと脳髄を刺す目眩は、この際、無視だ。
「違う違うちがうちがう、待って、誤解だ、待ってくれ――」
何が違うんだか自分自身でも分からぬまま取り敢えず弁解の台詞をまくし立てる。
今にも叫び声を上げそうな彼女の口を、とにかく塞いでしまわなければと反射的に思って、もう一歩を忙しなく踏み出す――
「うぁ!」
「え?」
――躓いた。この窪みは恐らく、排水溝だ。そう認識出来たときには、上半身は大きく傾いでいた。
うっわ、まずい。手ぇついたら手首痛めるかな。困るな。でもそーしないと顔面直撃だし。
ってコトは結局、打つ手ナシ? おいおい情けねぇぞ俺、サーキットでもないところで怪我だって?
内側にいる冷静な自分がそうやって虚しい未来予想図を描いている間も、世界はスローモーションで傾き続け――
――そして、妙に柔らかな感触と共に衝撃が来た。
「……あれ?」
捻挫は覚悟で前に伸ばした手首に、予想したような痛みはない。かといって額で地面にキスをした訳でもなさそうだ。
じゃ、なんで?
一回瞬きをする間に脳内を過ぎったその疑問は、一瞬遅れて叩きつけられた怒声によって掻き消された。
「何をやってるのよ貴方は! こんなとこで転んだりしたら、レーサー生命どころか下手したら人生そのものが終わっちゃうじゃないの! いつもいつも図々しい顔ばっかりしておいてどうしてこんなところで慌てたりするのよ馬鹿!」
……水面までびりびり震えるかというほどの迫力ある大音声。うへぇ、こりゃやっぱり幻聴じゃねーな。
思わずきゅっと目を瞑ったところで、その怒声が随分な至近距離から響いてくることに気付く。
と、いうか。その怒声に合わせて、自分の頬の下にある柔らかいものが震える。
……これ。もしかして。
半信半疑で、目を開く。ぱちぱちと数回、瞬きする。視界を埋める、湯気に煙った微妙な濃淡。その弾力。
えーと。これ、やっぱり、もしかして。
「……っ、いい加減にしゃきっとしなさい! どこにも怪我はないでしょうね?」
ぐい、と額を押されて仰け反って、漸く視界が開けた。
あ。やっぱり。変に現実味の欠けた頭で納得する。
柔らかいのは、彼女だ。
咄嗟に受けとめようとしてくれたのだろう、彼が顔面から突っ込むはずだった浴槽の縁に、彼女はぺたりと座り込んでいて、
――その柔らかい身体の上に、彼はみっともなく倒れ込んでいるのだった。
「……きょーこサン」
「大丈夫なの? どこも打ってない?」
怒り顔だったはずなのに、きゅっと寄せられた眉は心配そうで、額を押しやったままの手のひらも不思議と、柔らかい。
寧ろ硬い石に身体を打ち付けたのは彼女の方だし、尻にも太腿にも打ち身や擦り傷のひとつふたつ出来ているだろうに、本気でそんなことは忘れてしまっているようだった。
「……あの」
「どうしたのよ。どこか痛いの?」
焦ったように眉をひそめた彼女の目を見つめて、加賀は言った。
「すっげオイシイ構図、なんだけど」
「え?」
怪訝そうに呟く彼女の、無防備な肩に手を掛けながら。
「……せっかくだから、続けていい?」
――数秒後、真っ赤になった彼女によって見事に湯の底へと沈められた加賀は、存分に塩辛い湯を飲む羽目になった。
*
その後の無様な罪のなすりあいは結局、双方不注意、喧嘩両成敗、という決着に落ち着いた。
内湯である大浴場は男湯と女湯に分かれているが、そのどちらからも入れる露天風呂は実は混浴なのだ。よく見れば脱衣場にも露天風呂への扉にもその旨注意書きがなされているのだが、酔っている上に寝不足の頭で、ふたりともそれを完全に見逃していたというだけの話。
他人が全くいなかったのが、不幸中の幸いか――大の大人二人が一糸纏わぬ姿で罵り合うみっともない現場を目撃したのは、今日子の朝風呂に付き合っていたみきひとりだった。
そのみきは今、今日も今日とて愛しの女王サマをからかうのに余念がない彼に向かって、訝しそうな目線を向けている。
「……浮かれすぎだと、思うんだよね」
「へ? 何か言った?」
頭から湯気を立てんばかりにして去って行く姿を見送って、にやにやと頬を緩ませていた彼が振り返る。
「そりゃ、多少はオイシイ思いが出来ただろうとは思うけどさ。あれ以来、ずーっと機嫌いいじゃん、加賀。そんなにも嬉しいもんかと思ってさ」
一瞬、きょとん、とした彼は、すぐに何かに思い当たったように破顔した。
「――そりゃあ、もう♪ 何しろ相手が相手だからなぁ、あの一回で半年分くらいの価値はあるってね」
何の半年分なんだよ、と呆れ顔をしたみきに、わざとらしい下品な笑い声を投げて、続きの部分は内心で呟く。
(浮かれるなって方が、無理だろよ)
だって彼女が。
彼女が、守ってくれたのだ。
咄嗟に身体で受け止めてくれるくらい。
状況を忘れて本気で怒鳴りつけてしまうくらい。
柔らかな身体の感触よりも、眩しい肌の印象よりも、そのことがいちばん、嬉しいのだ――正直に言えば。
(……ま、言うつもりなんかねーケドな)
今は、浮かれ過ぎだと思われているくらいでちょうどいい。
(けど、いつか、)
いつか、きっと、いつまででも。
(今度は俺が、守ってやるから、よ)
だから今は、取り敢えず――
「お、きょーこサンおかえり〜。俺が恋しくて戻って来たのかー?」
「単なる忘れ物!」
「えーなんだよーつれないなぁきょーこサン、もーちょっと構ってよー、生まれたまんまの姿を見せ合った仲じゃーん」
「馬鹿言わないでッ! どんな仲だってのよ! 勝手に見ただけでしょ!」
「じゃ、今度ちゃんと見せてよ。なんなら今夜あたり」
「〜〜〜〜っ加賀くん! いい加減に……!」
「うわ、ストップ! その振り上げた手はなんデスかっ!?」
――この関係を、良しとしよう。
軽口に潜ませた行き場のない想いを、いつか本気で受け止めてもらえるように、なるまで。
[09年8月]