花の主


 桜の木の下には、屍が埋まっているのだと言います。

 私がその桜を見たのは、四月に入って一週間ばかり経ってからのことでした。
 それはそれは見事な大木でしたが、不思議なことに花が咲いていないのです。 他の桜は今を盛りと咲き誇っているというのに。
 友人によると、その桜は少々変わり者で、他の桜が咲いている間は決して咲かないのだという話でした。 きっと目立ちたがりなんだろうよ、花も他の桜に輪をかけて綺麗なんだ、と友人は言いましたが、 私には不思議とその桜が淋しそうに見えてなりませんでした。
 どうしても花の咲いているところを見てみたいと思い、次の年にはもう少し遅く訪れる計画を立てて、私は次の日にそこを発ちました。

 翌年、私はひとりでその木のもとを訪れました。
 暖かな、よく晴れた日でしたが、人通りは殆ど無く、真冬のような静けさでした。 他の桜が葉桜になりつつある中、確かにその木だけが満開の花を咲かせていました。
 見事でした。息が止まるかというほどに。
 華やかで、美しくて、それでいてどこか淋しげなその姿に、私はいつしか涙を流して見入っていたのです。
 ああ、と誰かが声をあげました。
 私は慌てて涙を拭い、周りを見回しましたが、人影はありません。 背筋をぞくりという感覚が走り抜けました。確かに誰かの声がしたのです。
 ああ、と声がもう一度言いました。 驚いて顔を上げると、突然、一陣の風が吹き付けてきました。
 桜吹雪――。
 私は目を覆うことも忘れて舞い散る花びらを眺めていました。砂埃が目に飛び込み、また涙が出てきました。
「わたくしのために泣いてくださるのですか」
 声が、はっきりと聞こえました。
 はっとして声のした所を見ると、私の正面、ちょうど桜の幹の立っているところに、誰かが立っているのです。 男か女かは判りませんが、たいそう美しい人のようでした。
 黒い烏帽子に白の水干、淡い紅の袖括。白拍子だと気付くまで、私はただ呆然とその人を見つめていました。
「わたくしを哀れと思ってくださるのですか」
 女はじっと私を見て言いました。 その体は春霞のように頼りなく、実際向こうが透けて見えるのです。私は震える声を隠せぬままに尋ね返しました。
「あなたは、一体……?」
「聞いて下さるのですか、わたくしの話を、この哀れな女の話を」
 私には頷くことしか出来ませんでした。
「そうです、わたくしは……哀れな女でございます。 こんな形をしておりますが、わたくしは、もともとは白拍子などではありませんでした。 殿上人の娘として、平穏に暮らせるはずでしたのに」
 女が話すにつれて、ゆっくりと桜が揺れました。花びらを散らしているのです。 花びらが散っていなければ、女が消えてしまうとでも言うように。
「忘れもいたしません、あれはわたくしが十五の年、卯月も半ばの頃でございます。 わたくしには、好いたお方がございました。 それはそれはお美しい方で、それほど位は高くありませんでしたがたいそう気高く、楽に優れていらっしゃいました。 そして、わたくしはその方の妻となることになっておりました」
 女は少し目を伏せました。
「わたくしは……幸せでございました。そのお方の妻になれることが誇りでしたのに」
 手に持った蝙蝠で顔を覆って、女は暫く黙りました。
「……そのお方は、わたくしを好いてはくれませんでした。 わたくしは醜いからと、そう仰って、ある白拍子をお側にお召しになっていらっしゃったのです」
「そんな……、」
 私は思わず口を挟みました。
「あなたは、こんなに美しいではありませんか!」
「――――」
 女は、蝙蝠の陰で笑ったようでした。
「これでも――美しいと言って下さいますのか?」
 私は今度こそ息が止まりそうになりました。 蝙蝠をたたんだ女の顔には、目も鼻もなかったのです。 どす黒い血で描いたような、不気味な唇だけがありました。
「わたくしは、愚かな女です。そのお方の態度に傷付き、いつしか心を病み、鬼となり―― その美しい白拍子を殺して、肝を喰らいました」
 女は微笑んで、自分の唇をそっと舐めました。
「この姿は、その白拍子のもの。わたくしの夫に愛された女のものでございます。 わたくしは、この体を喰らっている時に捕らえられ、殺されて、ここに埋められました」
 桜の、木の、下には。
 屍が埋まっているのだと、言います――。
「美しいと言って欲しくて、わたくしはこうして花を咲かせておるのです。 毎年、花が咲く度に、皆が美しい、美しいと言って下さいます」
 気付くと、女の顔はあの美しい顔立ちに戻っていました。
「あなたは、泣いて下さいました。 わたくしがどんなに苦しいかを解って下さいました」
 女は悲しそうに笑いました。 去年、初めてこの桜を見たときのように、私はとても淋しくなりました。
「だから――やめておきましょう」
「え?」
 訊き返した途端に、また風が吹き付けました。
 桜、桜、薄紅の嵐――。
 風が収まったときには、もう女の姿はなく、私はゆっくりと倒れていく自分を感じていました。

 それから今まで、私はこの話を人にしたことはありません。 その桜のことを教えてくれた友人にも、妻にも子供にもです。
 ただ、これはあの後で知った話なのですが、あの桜の木の近くでは、事故や自殺が絶えないのだそうです。 その血で地面が真っ赤になっても、次の日には綺麗に元に戻っているのだと、友人が教えてくれました。

 桜の木の下には、屍が埋まっているのだと言います。そして、屍の血を吸って、桜は薄紅の花を咲かせるのだと。

 今年もあの桜は、たった一本で美しく咲いていることでしょう。

[2010年4月]