機械仕掛けのくじら


 時刻はそろそろ22時。呼び付けられて行ってみたら、彼女はひとりではなかった。店の最奥、隅の席、壁に溶け込みそうにして、大きな影が寄り掛かっているのが目に入る。
「……ブーツホルツと居るなら、そうと言ってくれ」
「特に必要のない情報だと思って」
「つまり私は、運搬係という訳だな」
 軽やかに飛躍した“つまり”を微笑みひとつで受け流して、クレアは空になったグラスを持ち上げてみせた。花に似た、鮮やかな香りが残っている。
「新記録」
「何杯?」
「一本」
「ボンベイ・サファイアを丸々か。それは凄いな」
「だいぶ酷いようね」
 いつも通りにおっとりした口調の、語尾が微かに低く落ちる。置いたグラスがことりと響く。
 文字通り“鋼の”肉体を持つとは言え、アスリートとしての体力的なピークは、とっくの昔に通り過ぎてしまった。 戦績は落としていない、足掻く様子も見せはしない、それでも、ところどころ走るひび割れに、この友人の焦りが見える。
 喉の奥が苦い。焦りが酔いを求め、酔いが身体を蝕み、衰えた身体が焦りを弥増す、そういった悪循環の事例を既に幾つも見てきた。
「車はどちら?」
「裏に。街灯の下」
「そう、」
 化粧室にでも用があるのだろう。先に行ってらして、と席を立つ後ろ姿を見送ってから、大きくひとつ溜め息を吐いた。 体格のいい――身長は僅かに自分の方が高いが、質量の差は圧倒的だ――酔っ払いを、駐車場まで連れて行く。 それだけの単純なミッションだが、なかなかに骨は折れるのだ。小さすぎる木製の扉を潜って表へ出れば、この国特有のべとりと湿った暑さが押し寄せた。
「…ん……すまない、…エレオノーラ、」
「お前の飼い猫はいつからこんなに逞しくなったんだ」
「…缶詰は…勘弁、してくれ、明日また…買ってやるから…」
「要らん!」
 何をどう勘違いしているのか知らないが、この状態で友人を愛猫と取り違えるとは大した酔っ払いだ。
 そう、名前だけ聴けば恋人のようだが、エレオノーラが優美且つ高慢な黒猫であることを修は知っている。因みに女(雌)ではある。一応。 猫と子どもには人気があるが、妙齢の女性との浮いた噂はとんと聞かない友人である。
 全く、いつになったら春が来るんだ。見た目も性格も、そう悪くはない筈なのに。おれほどではないにしても。
 他人が聞いたら頭痛を起こしそうなことを考えながら、重たい脚を一歩一歩と運んで行く。水銀灯の無骨な灯りに、無数の羽虫が群がっている。 ちりり、ちり、と、翅が灯に焼かれるらしい音。水銀灯とはよく言ったものだ。冷たい印象の白い光は、確かに時折、銀に見える。
「いぶし銀の独眼竜」。 名誉なのか不名誉なのか定かではない徒名を引きずって、速度の最先端に居続ける、この奇特な男と親しく付き合っている女性は多分、修の知る限りひとりだけだ。 クレア・フォートラン――陶磁器人形ビスク・ドールめいた容貌に劇薬のような知性を併せ持つ、未だに手強い、自分の恋人。
 彼らの友人歴(或いは顔見知り歴)は、修のそれより幾分長い。 付き合い自体はつかず離れずさっぱりしたもので、だが逆に、そのこなれ過ぎた距離感こそがやけに怪しい……とは、知り合いの雑誌記者の弁である。
 疑わしいのは尤もだ。実際こうして、知らないところで会っていたりするし。 女嫌いのブーツホルツが彼女にはさしたる拒否反応も示さないし、のらくらと他人から距離を取るクレアが、彼には幾分干渉したりもするし。
「重いわね、」
 ──ほら、こんな風に。いつの間に追い付いたのか、鋼の腕に添えられた手は支えるというより絡み付くようで、なるほど確かに、見ようによっては幾らでも邪推出来そうだ。
「解っているならこんなに呑ませないでくれ」
「あら、私の所為?」
「君は魔性の女だからな」
 くすくす、小さく笑い声。
「おかしいわね、お墨付きの魔性を以てしても、なかなか蕩けてくれないのだけど」
「見事にどろどろじゃないか」
「だめよ、」
 ととん、と、揃えたように歩みが止まる。駐車場の端、水銀灯の下、助手席の扉が黒々と、開けられるのを待っている。
「心臓がね」
「心臓が?」
 腕に添えられていた手が、するりと背中に回った気配。心臓。広い背中越しの鼓動。 それが、クレアには判るのだろう。とん、とん、とん、と、律動をなぞるように唇が動く。
「まだ、機械仕掛けのままなのよ」
「……機械仕掛けの鯨ケトゥス・エクス・マキナ、か」
「くじらなの?」
デウスではないだろう」
「そうね」
 背中を離れたクレアの手が、滑らかな仕草で助手席を開けた。大柄な身体を押し込んでおくには、後部座席は狭過ぎる。
「誰がいつ来て、呪いを解くの?」
「さあ。どうだろうな」
 後部座席にクレアの影が滑り込むのを見届けて、自分も運転席に収まった。水銀灯の光の切れる、前方の道はひっそりと暗い。
「……勇気と無謀は別物だ、って、昔誰かが言ってましたわ」
「意地と誇りも違うのさ」
 エンジンの始動音。シートの下の振動。かつて修も、スターティンググリッドの上で味わったもの。今もまだ友人が、手放し切れずに引きずっているもの。
 ――いっそ“普通の”身体だったら、ここまで執着しなかっただろうか。錆びない金属とバイオセラミック。人工蛋白と疑似表皮。 エデリー・ブーツホルツという生身を、CFという舞台に縛り付け、過酷なトレーニングを強いる、巧妙精緻な部品たち。
「弱いレーサーは消えるだけよ」
 そうでしょう?
 後部座席からの声は静かで、いっそ優しいくらいに聞こえる。
「そうだな」
 諦めて、消えてしまえば楽になる。溜まる疲労や倦怠感、かつてのように動いてくれない身体に対する絶望感、日毎夜毎に浮き沈みする不安定な心に、苛々と唇を噛むこともなくなる。 ──修自身が、そうしたように。
 どこまで泳ぎ続けられるのだろう。機械仕掛けの、不器用な鯨。鼓動を続ける心臓は、絶望の痛みを嫌と言うほど知っているのに。
「ばかだわ」
「…そうだな」
 同じセリフを繰り返して、修はゆっくりアクセルを踏んだ。深海を泳ぐ鯨のように、水銀灯の光の先、静かな闇に踏み込んでいく。

[2014年8月]