距離感の自覚
いつも通りのやりとりで、いつも通りに誘ったはずだった。
なのに。
並んで座ったカウンターの、微妙な距離感が気にかかる。
ほんの数センチ、普段より長い距離。少し遠い今日子を見ながら、加賀は率直に訊いた。
「……なんかあった?」
「え、」
「妙に硬くなってるっつーか、……弱気になってるっつーか。ちょっと、落ち込んでるみたいに、見える」
「…………」
目線が頼りなく彷徨って、力なくカウンターの上に落ちる。
「……反省しているの」
今日子らしからぬ消え入りそうな声で、そう言った。
「は?」
「加賀くんだから、大丈夫だったんだわ。それをすっかり忘れてたの。何にもないと思っちゃったのよ、莫迦よね」
「なにソレ? どーいうこと?」
「……ふたりで飲みに行って、……水中写真が趣味だって言うから、見せてもらいに行ったの。
以前から、仕事上のお付き合いでは何度か顔を合わせていた相手だし、親しくしているつもりではあったんだけど」
「……だけど?」
イヤな予感。らしくもない歯切れの悪さが、不快な結論を予想させる。
「その、……なんていうか、無理矢理、されちゃって」
頬が歪んだのが自分でも分かった。
一瞬、男の下に組み敷かれている今日子の姿を思い浮かべてしまった自分が不愉快だ。
「結局、……えっと、最後まではされないで済んだけど、」
加賀の表情に気付きもせずに、今日子は続けた。長い睫毛が小さく震える。
「でも、すごくイヤだったわ。気持ち悪かった」
……そりゃそうだ。気持ちよかった、なんて言われたら、立ち直れない。自分自身を誤魔化すように考える。
「どこのバカだよ、んな身のほど知らずをしでかしたのは」
極力軽く訊ねたが、今日子は力なく微笑んだだけだった。それなりに親しかったようだし、庇いたい気持ちが残っているのだろう。
「もちろん、ひっぱたいてやったんだろ?」
「蹴飛ばしてやったわ」
だよなー、大人しくヤラレっぱなしの女王様じゃねーもんな。
少しだけほっとした加賀の目線の先で、視線を落とした今日子が呟いた。
「……言われたのよ」
「なんて?」
「勘違いさせた君が悪いんだ、って。
部屋までついてきたんだから、何をされても文句は言わないだろうって、男なら皆そう思うはずだ――って」
「…………」
何を勝手な、と思う。思うけれど、確かにそれは世間的な真実のひとつでもあるのだろう。
「それにしたって、」
煙草を揉み消しながら、なんでもないように言う。
「ついてくぐらいだから、わりと気に入ってはいたんだろ、ソイツのこと。
無理矢理ってのはまあアレだけど……それでも、ものすごくイヤ、とまで思っちまうもんかね」
「嫌いじゃないっていうのと、好きだっていうのは違うわ」
「……まぁ、そりゃあな」
「好きな人以外に触られるのは、……やっぱり、どうやったって気持ち悪いもの。そうでしょう?」
そうかねぇ、別に惚れた相手じゃなくても、ある程度可愛い子なら別にいいけどな。
そんな気がしたが、間違いなく軽蔑されるだろうなと思ったので、口に出すのはやめた。
「加賀くんの所為だわ、ってちょっと恨んだけど、本当はそうじゃないわよね。反省してるわ」
「……なんで一瞬でも俺の所為になるんデスカ」
「だって、『誰かと飲みに行く』のにこんなに慣れてしまったのは、貴方のおかげだもの」
「…………」
確かにそう、かも知れない。
そもそも、女王さまとサシで飲もうなんて度胸のある男は、本来そうそういなかったはずなのだ。
「だからちょっと、反省しているの。別に嫌いじゃなくても、もう少し警戒心を持とうと思って」
「……へぇ」
で、その警戒心とやらの表れがこの距離だってか?
今日子と自分の間にある、僅かな距離をちらりと見やる。普段より少し、ほんの少しだけ長い距離。
「みんながみんな、貴方みたいな訳じゃないものね」
その距離の向こうで、今日子が小さく溜め息を吐く。
「…………」
アナタミタイ、ってどんなだよ。
口に出したら聞きたくない答えが返ってきそうで、誤魔化すように新しい煙草を咥えた。
「……ええ、そうよね、気を付けるわ。誘われたからって、うっかりついて行かないように……」
言いかけて、はっとしたように振り向く。少しだけ頬を赤くして、今日子は咳き込むように言った。
「あ、違うの、別に、加賀くんのことを信用してない訳じゃないのよ? 貴方は別として、なんていうか、その、他のひとは……」
困ったように眉を寄せて一生懸命に弁解する今日子の瞳が真剣そのものだったので、加賀は内心、がっくりと肩を落とした。
つまりこの微妙な距離感は、今日子にとっては完全な無意識の産物で。
ひとかけらも、男としては意識されていない。そういうことだ。
「……加賀くん? 怒ってる?」
「……いや、」
怒っちゃいないけど、実に複雑な心境なんですよ、女王様。
心配そうな顔でこちらの様子を窺っている、今日子との間の僅かな距離。
もっと近付いてほしいような、――寧ろ警戒して離れてほしいような。
どっちつかずの自分に呆れながら火を点けた煙草は、普段より少し、苦いように思えた。
[2010年4月]