2人分


 有言実行型の男は好きだ。行動力のある男も。それはそうだけれど、こんなことまで有言実行しなくたっていいのに。
 どうせ汗かくだろ、汗以外のもんでもいっぱい汚れる予定だし。
 ……そう言ってのけたときも、なんとも嬉しそうだった。
 日向に置いておいた水飴のようだった肌は、安っぽいイチゴの香りがする泡で元通り綺麗になったが、厄介なのは髪だった。
 絡んで乾いて固まってしまったその粘りを、ぬるい湯で洗い落とす労力は相当なもので。ましてや、鎖骨の脇に残ってしまった唇の跡は、消えない。
 いくら調子に乗っていたって、こんな失敗をしでかすような彼ではないから、つまりこれは故意だ。
 鏡の前でちょっと身を捻ってみる。服を着れば恐らく、緩く波打つワンピースの布地から、ちょうど見えるか見えないかという微妙な高さ。
 この位置まで計算の上でやっているのだとしたら、……なんて男。
 惚れ惚れするよりも腹立たしい気持ちの方が勝って、今日子は眉を寄せたまま溜め息を吐いた。

 白を基調とした浴室は、思っていたよりもずっと広くて明るかった。
 寝室と同様、やけに大きすぎる鏡や――勿論、今の今日子はその用途を正しく理解しているが――無駄に広いとしか思えない洗い場、シャンプーでもコンディショナーでもボディソープでもない謎のボトルなど、色々不穏な部分はあるが、少なくとも清潔ではある。
 湯船の中で、寝起きの猫のような伸びをする。彼のお気に入りの、柔らかな乳房がたぷりと揺れる。その胸の谷間にも勿論、洗っただけでは消えない跡。
 ……調子に乗らせちゃ、いけないわよね。ここでびしっと言っておかないと。
 きっとまた言いくるめられてしまうだろうな、と頭の片隅で思いながら、それでも気丈に作戦を練る。

 そもそもこちらに非はないのだ。彼が悪い訳でもないけれど。
 予約がかち合ってしまったのはホテル側の手違いで、勿論、「極上客」の今日子がちょっと強硬な姿勢を取ればそのまま宿泊出来るのが当然だったが、もう一組の予約というのが歳若い夫婦の慎ましやかな新婚旅行だったりしたものだから、さっさと身を引いて流浪の民となったのだった。
 どんなホテルだって眠れさえすればいいわ。
 ごく素直な気持ちでそう言ったのに、どんなホテルでも?と繰り返した彼の口元は妙ににやついていて、今日子は思わず身構えた。
 ――で、予想通りの展開。
 彼が選んでのけたのは、経済的にも年齢的にもそぐわない、十代の恋人たちが学校帰りに逃げ込むような、安っぽいホテル。
 気恥ずかしさと気まずさに押されて、駐車場に入る前から今日子は色を失っていたが、――どんなホテルだっていいと、確かに自分が、そう言った。
 だから今更、こんなところでは厭だ、などとは言えなかった。言葉をぐいと呑み込んだ代わりに、細い眉根がきゅっと寄る。
 そんな怒んねーで、喜べって。
 にやにや笑いに微かな欲望の色を滲ませながら、彼が囁く。
 せっかく、好きなだけ声出していーんだからさ。
 ……精々、感謝しておくわ。
 無理矢理作った呆れ顔の下で、頬がじわりと熱くなった。それを確かに見透かして、彼は嬉しげに目を細めた。

 ……結局、私の所為、なのかしら。
 回想に割り込まれて練り上がらなかった作戦を放棄し、ずるずると湯の中に沈む。
 私が反応しすぎるから、ますます調子に乗るんだわ。……たぶん。
 思う通りの反応はするまい、と気負っても、意地を張れば張るほど、生来の好奇心を消せない。違う環境で育ち、遠い世界で呼吸をしてきた彼が彼女に仕掛けてくる物事はいちいち刺激的で、正直、酷く面白かった。
 見たことのないものを見せてくれる。したことのないことをさせてくれる。知らないことを教えてくれる。――彼女を、新しくしてくれる。
 例えばこんなホテルだって、彼とでなければ多分一生泊まることなどなかっただろう。強烈な圧迫感のあるあの室内も。偏執的に置かれた鏡も。白々しいほど広い浴室も。安っぽくしかも愛らしいアメニティの類も。ずっと、知らないままだったはずだ。
 ……そういえば、これ、
 湯に浸ったまま片手を伸ばして、棚に置かれたアメニティ類の籠を引き寄せた。いささかチープで、その分若い女の子が好みそうな、きらきらと愛らしいピンク色のボトル類が並んでいる。
 匂いが甘すぎるけど、デザインはわりと可愛いわよね。もらっていこうかしら。使いかけのは勿体無いし……
 誰に影響されたのやら、大企業のご令嬢らしからぬことを考えつつ、未開封のボトルやパッケージを並べ直してみる。
 シャンプーとコンディショナーのごくごく小さなボトルが2セット。使い捨ての歯ブラシが2本。同じく使い捨ての安っぽいスポンジが2個。
 水玉模様のシャワーキャップはひとつだけだし、白いプラスティックの柄が付いた剃刀も1本だけだ。メイクも落とせる洗顔料、とやらはひとつだが、コインくらいのサイズのゲストソープはふたつある。
 ああ、なるほど。女性だけが、或いは男性だけが使うものはひとつしかない、ってことね。ささやかな気付きにひとり頷く。
 よく考えたら――いや、考えるまでもないことだが――この手のホテルの宿泊客は、九分九厘が「男女各1名」という構成なのだ。各部屋ごとに備品を違えておく必要はないし、必要最低限のアイテムはどれも、準備が簡単で日持ちがするものばかり。
 利益率がいい筈だわ。この手のホテルは随分儲かる、とよく聞くが、その理由のひとつがこれなのか、と彼女は深く納得した。
 ……うちでも経営してみましょう、なんて言ったら、きっとものすごく怒られるわよね。そんないかがわしい商売、とか言って。
 想像してちょっと笑う。
 イカガワシイ――確かにその通りだ。セックス以外の目的を持たないあの部屋の、あからさまな下品さ。信用ならない感じ。
 けれどこの、可愛らしい備品たち。期待に胸を躍らせて、或いは気だるい幸福に満たされて、彼女と同じように様々な女性が手に取るであろう小物たち。
 必ず、2人分の。
 2人でなければ意味のない、2人で過ごすためのイカガワシイ部屋の。2人に合わせて用意された、2人分の消耗品。
 ふたり、の。
 ――それは、なんて。
 確かにいかがわしいけれど、それでも、なんて。
 なんて、甘やかな響きだろう。
 猫のように目を細めて、彼女は並べた備品たちに視線を滑らせた。
「……おーい」
「え?」
 途端、呼ばれて顔を上げる。曇り硝子の扉を押し開いて、不機嫌な顔の彼が立っていた。――いや、不機嫌な顔を装った彼が。
「いつまで俺をほっとく気なんですか。ひとりだけゆったりしててズルイとは思わないんですかー」
 よくも言う。呆れて、溜め息を吐く。
「時間をかけて洗わなきゃ落ちないほど色々汚してくれたのはどなただったかしら」
「なんと、どこにそんな不遜な奴がー?」
「……恥知らず」
 くけけ、と悪役じみた笑いを零して、図々しさの権化のような彼が浴室に入ってくる。――どころか、浴槽に入ってくる。
 呆れたことに、寝乱れた寝間着を濡れた床に脱ぎ落として、遠慮の欠片もない姿になって。
「ここなら汚れねーから、」
 膝を抱えて彼の分の空間を確保してやっている彼女に、いかにもナイスアイデア!といった顔をして提案する。
「安心して、しかも色々使って、もう一回出来ますけど?」
「そうね」
 おや、という顔を彼がした。こういう悪ふざけのときの彼女は大抵、羞恥に目元を染めながら、かなりの本気で怒るのだ。
「……めずらしー。怒んねぇの?」
「怒った方がいい?」
 いや、と、喜んでいいのか戸惑っていいのか決めかねているような目で彼は彼女を覗き込んだ。
「寧ろ嬉しーけど、……どしたの?」
「別に、何も」
 先手を打って軽い口付けを落とし、彼女はにっこりと笑う。
「……ほんとに、なにも?」
 目をぱちぱちさせている彼の頬を包んで、確かめるように撫でてやる。
「ええ。何も。ただね、」
 ふたりいるっていうのは、素敵なことだと思って。
 耳元でそう囁くと、彼の手が嬉しげに背中に伸びた。ぐらりと傾いた視界の端で、2人分並んだピンク色のボトルが光った。


[09年8月]