うれしい


  ――えーっと、……どうしたらいいんだろ、コレ。
 目を覚ましたみきを真っ先に襲ったのは困惑だった。
 何しろ、抱き枕か何かのように自分を抱え込んでいる彼の腕が問題だ。 無理に引き剥がしたら起こしてしまいそうだし、そっと抜け出すには体勢に無理があるようだし、 かといってこのまま黙っていたら、いつ目を覚ますか分からない。
  ……喉渇いたなぁ。トイレにも行きたいし。
 心の中だけで溜め息を吐く。仕方ない、視界の端っこに映っている時計の針が、6時を指したら起き上がってしまおう。 もう外は明るいのだし、彼だってもちろん文句も言うまい。
 でも、あと少しだけ。あんまりにも気持ち良さそうに眠っているから、あと、ほんの少しだけ。
  ――それにしても近すぎだよ、コレ。
 漸く自分の居場所を再認識して苦笑する。 瞬きするのも躊躇われる、睫毛同士が触れそうな距離。
「友達以上」になってからだって、こんな至近距離で相手の顔を眺めた覚えはない。 それなりの身長差があるから、抱きついてしまうとみきの視線は彼の肩口辺りだし、 キスするときは目を閉じるから、やっぱり顔を見つめる機会にはならない。
 キレイだなぁ、と感心する。真っ直ぐな鼻筋と薄い唇。黒々と長い睫毛。 決して女性的なわけではないが、ハンサムというよりはキレイだと言いたくなるような、線の細い顔立ちなのだ。
  しかしホントに、気持ちよさそうに寝てるよね。ちょっと笑っちゃう。
 幾ら細いと言ったって、ぬいぐるみでも枕でもないのだから、それなりの硬さがあるはずのみきの身体。 それをこんなに力いっぱい抱き締めていて、眠りづらくはないのだろうか。
  ……あ、そうか。違うんだ。
  コレ、気持ちよさそうなんじゃなくて、嬉しそうな顔、なんだ。
 気付いたら頬が熱くなった。今更のように。うれしい、と囁いた彼の声を、突然思い出してしまったから。
 すき、とか、かわいい、とか言われるよりもずっと、響いた。 愛しそうに名前を呼んで、ときどき心配そうに労わってくれて、そして全部が終わった後でみきに、うれしい、と彼は囁いたのだ。 穏やかな、そしてどこか誇らしげな笑顔で。
 胸がきゅっとなると同時に、なんだよ生意気に、とも、微かに思った。
 なんだよその余裕の笑みは。始まるまでは、ものすごく緊張していたクセに。
 あんただって、――あたしと同じ、まったくのハジメテだったクセに。そんな風に。
 まあ、ね、と今では少し落ち着いた頭で考える。
 なんだかんだいってコイツは、土壇場に強いタイプでは、あるよね。
 どれくらいの予備知識があったのかは知らない。 誰かに――たぶん加賀だのグーデリアンだの辺りに――余計なコトを散々吹き込まれていたかも知れない。 けれど少なくとも、実際の経験が皆無であることだけは確信を持っていた。
 何しろ長い付き合いである。チームメイトになってよく判ったのは、彼が正真正銘のレースバカなのだということ。 レースとそれに伴う練習以外で好きなのは食べることとビデオゲームくらいで、夜遊びどころか日中に出掛けることさえあまりない。
 渡米してからは尚更だ。 「調整」という名の手加減のあったアオイのプログラムに比べて、グレイの課してくるトレーニングは苛酷なまでのものだったし、 複数のバイトの掛け持ちで、余暇などというものは皆無になった。
 だから、おかしな言い方だが、安心していた部分があったのだ。 踏み出せないのはお互い様で、だからきっともう暫くは、このままの関係でいられるのだろう、と。
  ……コレでいよいよ、恋人同士、ってコトになるのかな。
 嬉しいような気恥ずかしいような気持ちで考える――どちらかというと気恥ずかしいのが先に立つ。 何しろ、先に我慢出来なくなるのが自分の方だなんて思わなかった。 そして、八つ当たりのような挑発に、まさか彼が乗ってくるなんて、全く思っていなかったのだ。
 お互い全く経験もなく、予備知識も準備も不足気味で、半ば自棄になったように始めてみただけのはずだったのに、 ――ちゃんと、繋がれてしまうなんて。
  大したもんだな、男の子って。……いや、それはあたしの方もだけど。
 覚悟したほど痛くはなかった。彼が相手だから怖くもなかった。 何も知らなくても、全くの初めてでも、ちゃんと受けいれることが、できた。
 気まずさも恥ずかしさも戸惑いも、始まってしまうと吹き飛んで、残ったのはただ、うれしい、と囁く彼の感触だけ。 声でも、指でも。唇でも、腕でも、眼差しでも。身体中すべてで伝えてくる気持ちがみきも嬉しくて、胸がいっぱいになった。
 そして今も。すっかり夜が明けてしまった今でも、その余韻が残っている。――解けない魔法が、残っている。
 こんなことひとつで、世界が変わるワケじゃない。 前途多難な毎日はきっとこれからも続いて、甘ったれな彼も気短な自分も、押し寄せる荒波と闘い続けなくてはならない。
 それでも。
 ――弱いようで強い、脆いようでしぶとい、土壇場では必ず逆転劇を演じてみせてくれたこの、大切なパートナーと一緒なら。
 魔法はずっと、解けない。
  うん、うれしい。あんたといると、これからもきっと、うれしい。
  今みたいに、この朝みたいに、きっと、いつも、すごくすごく。
 込み上げてくる愛しさを微笑のかたちに変えて、みきは目の前の彼に口付けてみた。 かちりと鳴った時計の針は、ちょうど6時を指したようだった。

[2011年3月]