継がれていくもの
「……ええ、はい、承りましたわ……で、こちらとしましては、販社の指定をさせて頂きたいと……ええ、はい……」
ノックもせずに扉を押し開けると、今日子は書類の山を引っ掻き回しながら受話器に向かって交渉の真っ最中だった。
一瞬だけ加賀を見た視線で「待ってて」と伝えて、意識は再び回線の向こうに戻る。
書類を引き寄せては捲る指先が苛々とリズムを取っているのを見て、すぐに片付く話ではないらしいと悟った加賀は、
勝手にくつろがせてもらうことに決めた。図々しくオフィスに置いている自分専用のコーヒーカップを手に取る。
羨ましそうな顔をする今日子にカップを掲げて見せ、一杯拝借の許可を得ると、サイフォンから香ばしい湯気の立つ液体を注いだ。
新鮮で華やかな香り。淹れてから、まだあまり時間が経っていないのだろう。
行儀悪く立ったままコーヒーを啜りながら、今日子を尻目にソファに腰を下ろす。
「ええ……そうでしょうね、分かります……ただ、こちらといたしましても最大限の譲歩で……
ええ、はい、それは勿論ご承知でしょうけれど……」
柔らかくゆっくりとした口調の癖に、背筋が粟立つほどの威圧感。おーおー、流石は女王さま。回線の向こうの相手がちょっぴり気の毒だ。
「……はい、ええ、結構ですわ。でしたらこれで……え? なんと仰いました? ……え、はい、ああ……お伝えしますわ、宜しくて?」
苛々と、指先が強く机を叩く。思うように返事が返って来ないんだろうな、と思いつつ、綺麗に塗られた爪の先に見惚れる。
無意識に尖らせた唇、不満げに寄せられた眉根にも。
「いいですか?……マエカブで、ディーエヌエイスタジオ……いえ、ディーです、ディー……ジーではなくて……
Delta-November-Alfa、スペース入れて、STUDIO……全大文字、英綴りで……」
あーあ、まためんどくさいこって。よりによって正式社名がアルファベット表記で、しかも伝わりにくい販社を選ばなくたってよかろうに。
苦笑する加賀など気にも留めずに、今日子は辛抱強く受話器の向こうに話しかけている。
「エス、ティー……ピーではありませんわ、Tangoのティー……宜しくて、ス・タ・ジ・オの綴りは、
Sierra-Tango-Uniform-Delta-India-Oscar……え? ……ですから、Delta-November-Alfa……Deoxyribonucleic Acid……
デオキシリボ核酸、の、D・N・Aです……宜しくて? ……ええ、はい、それで結構ですわ。見積もりは……明後日ですのね? 結構です。
FAXでも、メール添付でも構いませんわ。……ええ、でしたらメールで。来週の水曜までに、お返事させて頂きます。はい、そのように。
助かりますわ。では、また。失礼致します」
にっこりと意識的な微笑みを浮かべた口元のまま、電光石火の早業で、今日子は通話を断ち切った。
受話器を机に叩きつけかねないくらいの不機嫌な仕草に、思わず加賀は吹き出してしまう。
「……ご機嫌ね、加賀くん」
「あんたの機嫌がナナメすぎ」
はぁ、と大きな溜め息をついて、今日子は強張った肩を竦めてみせた。
「正直、疲れるのよあそことのやりとりは。話が通じさえすれば仕事は正確で助かるんだけれど、どうにもそこまでの理解が遅くって」
「メールにすりゃいんじゃねーの、あんなのは。文字表記なんか電話で話すだけしんどいだろ?」
「それはそれでタイムラグが鬱陶しいんだもの」
「せっかちですこと」
「当たり前じゃない」
つん、と唇を尖らせて彼女は言う。
「私にはね、レーサーの血が流れているのよ」
何よりも速度を愛する、呪いにも似た祝福の血筋。
「それこそ、Deoxyribonucleic Acidのなせる業、ってワケな」
立ち上がり、机に散乱した書類を覗き込みながら、大袈裟なアメリカ式の発音で茶化す。
「そうね。走りたがりのDNAで出来ているんだもの、仕方ないと思わない?」
「因果な血筋」
「全くだわ」
再度肩を竦めた今日子に、加賀は苦笑気味の視線を投げて――それから、にやりと呟いた。
「薄まらねぇもんな、しかも」
「え? コーヒー?」
「いや、その血筋」
「は?」
「あんたの産む子も、レーサーの血を引くんだろ」
からかい混じりの、楽しげな眼差し。
「…………そうと決まった訳じゃ、ないでしょ」
「あれ? 決まってんじゃないの?」
「何を」
馬鹿なことを、と続けたかった台詞は、強引な口付けの所為で途切れた。淹れたばかりの、コーヒーの味。
「……走りたがりが、好きなクセに」
例えば俺とか、と、至近距離の唇で囁く。
「残念な未来予想図ね」
顔をしかめて言い捨ててみても、頬に差す赤みはあからさま。弾んだ声で彼は続ける。
「俺は光栄ですケドね?」
「困ったDNAだこと」
「でもそーいうのが、好きだろ?」
心底嬉しそうに彼が笑ってみせるので、今日子はとうとう諦めて、小さく両手を挙げてみせた。
[09年9月]