酸素ボンベ


 ――見上げた先で光が揺れる。ゆらり、白く頼りない網の目、伸ばした手の先は届かなくて、届かなくて、青くって眩しくって苦しくって何も見えない。 もがく。足掻く。どこにも進めない。遠く揺らぐ光の網、焦っても暴れても一向に近付けない。息。苦しい。駄目だ、酸素がもう、ない、助けて、誰か、助けて、苦しい――
「……っ、」
 目が覚める。全力疾走の後みたいに暴れ回る心臓の音、耳の内側からどくんどくんと響くそれが頭蓋の中で反響して、一瞬、遠く耳鳴りがする。
 夜明けだ。カーテンの向こうの気配は明るい。水底を思わせる真っ青なカーテンを呆然と見つめているうちに、6時を告げる電子音が鳴った。


 いつからか、溺れる夢を見る。深い深い、それでいて酷く透明な、見渡す限り何もない青の底だ。
 足元がどうなっているかは判らない、加賀はひたすらに水面を見ている。天上から降ってきたような群青、目映く揺らぐ水面の光に、縋るみたいに手を伸ばす。
 辿り着きたい。あの向こうに。

 だってほら、そうでなくちゃもう、
 ほんの少ししか 息が持たない。


「――なんて言うのよ、それでね、……ちょっと加賀くん、聴いてる?」
 はっと顔を上げると、眉を寄せた今日子の視線に貫かれていた。ずきん、気道がきつく絞まる。
「…わり、ちょっと飛んだ」
「もう、しっかりして頂戴……寝不足なの?」
 つらそうよ、目、と覗き込まれて、曖昧な笑いで誤魔化す。
「午後の打ち合わせ、大丈夫かしら」
「あー……フォロー頼めると助かるわ」
「少し仮眠を取っていくのがいいかしらね。ここを貸すわ」
「んー、さんきゅ」
 とはいえ、眠るには眩しい。今日子のオフィスは窓が広い。視界は光の洪水で、目映い陽射しに刺し貫かれて即絶命しかねない。
「ああ、大丈夫よ、ブラインド下ろすわね」
 立ち上がって窓に近付く、今日子の姿が影絵のように見える。眩しい。……揺れる水面を、下から見上げているみたいに。
 手を。縋るみたいに手を、伸ばしそうになる。どうやったって届かないって、どう足掻いたって救われないって、夜毎夜毎に思い知ってる癖に、まだ。

 眠れないのは、あんたの所為だ。
 好きだ って気持ちが喉に詰まって、不意に息が出来なくなる。
 深い青、揺らぐ水面の下、いっぱいに呑み込んだ水で呼吸が出来なくなるような。
 溺れる。溢れてくる感情に。

「15分したら起こすから」
「……ん、」
 くたりとソファに凭れて、目を閉じる。薄暗くなった部屋の中、こぽこぽと水の満ちる音。今日子が傍を通り過ぎる気配。魚がすうと行き過ぎるみたいだ。
 目を開けて見上げたら、遠くに水面が見えるだろうか。手を伸ばしても届かないくらい遠くに。

 ――でも、今ここでなら、息が出来る。
 あんたが近くにいるから。
 喉の奥まで込み上げてくる想いを、素知らぬ顔して吐き出せるから。

「…きょーこさん、」
「? なに?」
「……オヤスミ」
 くす、と笑い声が落ちる。15分。充分だ。ぽかりと浮かんだ泡の中、加賀はゆるゆるとソファに頭を預けた。

[2014年8月]