耳に響くは
―― ECOH[名] こだま。残響。ナルキッソスに恋焦がれて死んだニンフの名。
*
このまま焦がれて死んだとしたら、この声だけが残るのだろうか。インカム越しに彼の名を呼ぶ、私の声だけ、ここに。
――ただの気紛れなのか或いはこちらの出方を待っているのか、その本心を探る術を今日子は持たない。持っているのは、本心を知りたいという気持ちを胸の奥底に沈めておく技術だけだ。
そんなに難しいことではない。他に考えるべきことは山ほどあるのだから、忙しさの中を必死で泳いでいればそれでいい。
それでも、こんな風にただ彼を見ているときには――上司でも同僚でもなく、ただの観客のように透明な気持ちで見ているときには――沈めておいたものがふつふつと、不穏な泡を立てる。
音速を超える風が正面を通り過ぎる。残された音が耳元でざわめく。目眩が、する。
*
油断した。
と、いうより、最早用心する必要などないと根拠もなく思い込んでしまっていた。
ふらつく足元を掬われて簡単にベッドに運ばれて、呆気なく身体を開かれてしまうまで、ひとかけらの危機感も抱けなかったほど。
漸く脳裏を掠めた危機感も恐怖心も、抵抗に疲れる頃には既に薄れていて、結局、悪い冗談に引っ掛かったみたいにあっさりと、身体は繋がってしまった。
思い詰めたような素振りは一切なく。真剣な眼差しも優しい言葉もなく。いつも通りの、人懐こい華やかさだけを振り零して、彼はいとも簡単に彼女を食べ終えた。
本心など見えない。どういうつもりなのか分からない。感覚の奔流に押し流された後の空白の中で、ここで問い詰めては駄目だ、とぼんやりと思った。問い詰めても無駄だ、とも思った。
だから黙っておこうと思った。大人しく。大人らしく。
まだ起きてる?と、修学旅行のような気安さで彼が訊く。返事の代わりにゆるゆる瞬くと、何を納得したのか、じゃあ二回目、と不躾な手のひらを太腿に滑らせる。
何が、じゃあ、なんだか。せめて皮肉のひとつでも、と思っても頭がうまく働かない。背骨の芯が気だるい。早く眠りたい。それなのに身体の方は与えられた刺激に忠実で、下腹の奥から重苦しい熱が湧いてくる。
今度は、と、楽しそうに笑いながら彼が囁く。
イくときは、名前で呼んで。下の名前で。
なんで?
内側に踏み込んでくる暴力的な塊に耐えながら、うわずりがちな声で訊く。
なんで、今更、そんなこと。
だって。
胸に顔を埋めて応える、彼の表情は見えない。
いつも通りの呼び方だと、俺、困る。
だから、なんで。
噴き上げる熱に身を捩りながら、重ねて訊く。汗の匂いに息が詰まる。
インカムであんたの声聞いたらさ、さすがにちょっと、マズイから。
まずい?
勃っちゃう、かも、知んないし。
ほんの少し余裕のない声音で囁くと、顔を上げて彼女を見る。瞳が熱っぽく濡れている。バカじゃないの、と言ってやりたかったが、実際に喉から零れたのは思い詰めたような喘ぎ声。
だから呼んで。今だけ、いつもと違う名前で。
それくらいイイだろ、な、きょーこさん?
――全く呆れた、自分勝手。違う名前で呼べと言って、自分の方はいつも通りだなんて。
非難も罵倒も頭の中でしか出来ないまま、今日子は二度目の波の中に溺れて、それっきり何も判らなくなった。
*
だから今、ただくらくらと目眩がする。当然のような顔で火を点けておいて、その後はずっとそ知らぬふりだ。
いや、ふりではないのかも知れない。とっくに忘れているのかも知れない。ただの気紛れなら、それこそあの彼なら、そんなことがあってもおかしくないのかも知れない。
それでも、今日子の中では重く小さな炎が揺れている。沈めておいた何かがふつふつと、不穏な泡を立て続ける。
音速を超える風が正面を通り過ぎる。残された音が耳元でざわめく。また、目眩が、する。
ちかちかと目映い視界から何かを読み取ろうとして、今日子はもう一度目を凝らした。何度も何度も、彼が視界を過ぎる度、ただ彼を見ている。見ている。見つめている。見つめている。
思い焦がれるようにして。
まるでアポロンに恋するクリュティエ、或いはナルキッソスに焦がれるエコー……などというのは多分、言い過ぎだ。
でも。
エコー、という柔らかな響きを頭の片隅で転がして、思う。
このまま焦がれて死んだとしたら、この声だけが残るのだろうか。インカム越しに彼の名を呼ぶ、私の声だけ、ここに。
もし、そうだとしたら。
悪戯めいた思いつきに、小さく笑う。
最期に呼ぶのは、下の名前にしてやろう。サーキットでそう呼ばれたら、彼はどんな顔をするだろうか。
マシンは第3セクターをベストタイムで通過中。あと十数秒。コントロールラインを越えたら、城太郎くん、と呼んでやるのだ。
焦がれて鼓動が止まってしまう、その前に。
[09年8月]