想うは貴方


 ゆるゆると墓地の登り坂は続く。暑い。陽射しに晒された背中がじわりと汗ばんで来たのを感じる。 予報では、気温は10月中旬並みと言っていたが。顔を上げて額の汗を拭った。手桶の中で重たく水が揺れた。

 見付けたのは本当に偶然だった。十年来手ほどきを受けて来た茶の湯の師匠の、葬儀に今日子は参列できなかった。 真新しい墓に参れたのは葬儀から半月ほども経った頃で、年若い住持に墓地を案内されながら、不意にその墓石に目が留まったのだ。
 それほど珍しい名字ではない。だが、ごろごろしているというほどありふれてもいない。予感だった。 騒ぐ胸を押さえて墓石の裏をなぞれば、会ったこともない、けれどよく知る名前が刻まれていた。柾。まさき、と読むのだ。 遠く異国の地で自ら命を絶ったと言う、彼の兄。
 秋風が押し寄せて、立ち尽くしている今日子の髪をざわりと吹き上げた。

 それから毎年、今日子は花を携えてここに来る。喪服は着けない。白いブラウスに浅黄のカーディガン、柔らかな緑のロングスカート。 幼い頃から一通りの「女のたしなみ」を叩きこまれてきた今日子には、白と黄、或いは緑で不祝儀を表すことは、なんら不思議なことではない。
 抱えた菊の花束が、秋の風に煽られて香る。白と、黄と、緑。今日子と同じ色だ。 ぽつ、ぽつ、墓々の間に濃い赤が差す。彼岸花の華麗な影が地面に伸びる。踏み越えて、目指す。おとなう義理などない筈の、彼に連なるその家の墓を。
 何をやっているのだろうと思う。嫁いだ訳でもない癖に。夫が知ったらいい顔はしないだろう―― どころか、手首を掴まれ縫い止められ、重く激情の凝ったあの瞳で、執拗に問い質されるのに違いない。暗い情欲に下腹が疼く。それでも、歩みを止める気はなかった。
 誰もいない。こんなにも穏やかに晴れた、彼岸の中日だというのに。午後の陽射しに照らされて、墓石の影が長く伸びている。 正面に立つと、風のざわめきが止んだ。墓の周りはきちんと手入れが行き届いて、雑草も塵も見当たらない。
 誰が管理しているのだろう。微かに疑問には思うが、知りたいとは思わなかった。いつも。

 顧みられることのない墓所になる筈だった。幼い彼と兄を捨てて蒸発した母親、挫折を超えられずに自殺した父親、その軌を追うようにして死んだ兄。杳として行方の知れぬ彼自身。 それでも、誰かがここに、彼の兄の遺骨を連れてきた。遠い遠い異国の地から。
――その前に父親をここへ葬ったのは、その兄だったのだろうか、それとも誰か、別の人か。 墓石に母親らしき名は見当たらない。存命なのだろうか。見付からなかっただけか、或いは、誰かと再婚したのだろうか。
 ゆわゆわと泡のように疑問が脳裏を掠めて、どうでもいい、と呟くように消えて行く。 空のままの花活けに、携えて来た菊を挿す。重い手桶から水を注ぎ、ほんの数本、線香を捧げて火を点ける。手を合わせても告げるべきことなどない。 どうでもいい。辿るべきほどの縁も無い。――そう思う癖に何故、また今年もここに居るのだろう。

 垂れていた頭を上げると、視界の端に赤が揺れた。彼岸花だ。 雑草のひとつもない敷地内、赤い花だけが素知らぬ顔で咲いているのは、誰かがわざと残しているのか、それとも、この花の勢いが強すぎるだけか。 ああ、そういえば、死人花などとも呼ぶのだったか。
 狐花、地獄花、剃刀花、捨子花……曼珠沙華、リコリス、天蓋花。美しい花だ。そして怖ろしい花。咲き誇る花の小道を辿って行けば、どこか、別の世界に辿り着いてしまいそうな。
 この赤は血の色だろうか。捨て切れない執着の色だろうか。それとも罪深い恋の、人を狂わす激情の、薄闇に綻ぶ唇の、赤い色だろうか。 胸の奥にぱっくりと開いた傷口から、今も流れ止まないままの。赤。遠くならない、記憶。

 いつか命が尽きた後、一抱えの白骨になって、彼もこの場所へ帰るのだろう。今日子の知らない、誰かの指示と采配によって。
 だから毎年、ここに来るのだ。いつか戻ってくる彼を、自分の気配で迎える為に。嫁いだ訳でもない癖に。結ばれた仲でもない癖に。 ただ、断ち切れずにいる激情の記憶の為だけに。
 赤色を瞳に焼き付けるように、何度も強く瞬きをする。遠くを風が吹き抜けて、一面の芒がしゃらしゃらと鳴った。

[2014年9月]