はれおとこ
10月26日、土曜日。明け方まで降っていたはずの雨は止んでいた。
「ほら、止んだだろ」
爽快な秋晴れの空を見上げて、新条は笑った。
「このサーキットで降られたことないんだ、おれ」
その顔があまりにも呑気で穏やかだったものだから、今目の前を通り過ぎた風が、彼だなんてやっぱり俄かには信じ難いのだ。
『来たぁ! 1分29秒558! 新条、一挙0.5秒以上を縮めて見事PP獲得ぅぅぅぅ!』
興奮気味の実況すら掻き消すように、わっ、と歓声が上がる。拳を突き上げるドライバーの姿が、モニタに大きく映っている。
『素晴らしいアタックでした新条、残り時間僅かというところから怒濤の追い上げ!
一昨年に風見が叩き出したコースレコードにこそ届きませんでしたが、このサーキットで1分30秒を切るというのはいやはや、
ものすごいことですよね!』
『そうですねェ、今回アオイの投入した新パーツが、期待以上の完成度だったことを証明した形にはなるんですが、
うーん、それにしても今日の新条は、いいですねェ。走りに気迫がありますよ』
『今年CF10年目の新条、実は明後日が27歳の誕生日なんですよね。後夜祭にはアオイ主催の誕生日祝いも予定されているとか。
26歳最後の日、しかも母国GPを、文字通り晴れ舞台と出来るのか……いや、明日の決勝が楽しみになってきました』
「あ、新条さん!」
「お疲れさまです!」
ピットに戻ってきたドライバーをクルーたちが出迎えた。片手を挙げて歓声に応えながら、ふらつく足取りで奥へと歩いていく。
「お疲れ。計測の前にメット取った方がいーんじゃないの?」
呆れ声で言いながらも笑顔を隠せないみきが、ぺちん、と新条のメットを引っ叩いた。あ、と声を漏らして立ち止まる。
「……ごめん、忘れてた」
「インタビュー終わったらボケていいから、もう少しだけしゃきっとしてなよ。ほら、いってらっしゃい」
脱いだメットをみきに手渡し、今度は背中を叩かれて、ふらつきながら奥へと消えていく。
安堵と呆れの入り混じった笑い声があとを追った。
「アレがついさっき1分29秒台を叩き出してきたドライバーだとは、ちょっと信じられませんよね」
「ホント。頼りないったらありゃしない」
ちょうど、見上げたモニタの映像が切り替わった。計測を終えてドリンクを受け取っている新条。
線の細い整った面立ちは、到底、超音速の舞台で戦っている男には見えない。
「でも僕、新条さんがマシンから降りると、ほっとします」
呟いたのはチームメイトの司馬誠一郎だ。
今年アオイ2年目の若手ドライバーは、新条には遠く及ばないものの、今期自己最高の7位で予選を終えている。
「ほっとする?」
「あ、帰ってきた、って。いつもの新条さんだ、って思うんですよ。
……そのくせ、メットかぶってマシンに乗り込むとこ見てるとその逆で、あ、来たぞ、ってぞくぞくするんですけど」
なんて、矛盾してますよね、と、照れたように笑う。
「僕は……なんていうか、まだ、レース中もそうでないときも、いつもおんなじ僕なんです。
不機嫌とか、気がかりとか、いろんなこと引きずってて。
あんなふうに、本当に人が変わっちゃったみたいに切り換えられるのって、すごいなって」
「若造のクセして、よっく言うよ!」
大袈裟な身振りをつけて、みきがばちんと司馬の背を叩いた。
「ったく、あんたの歳でそんな見事な切り換えが出来るくらいなら、とっくの昔にチャンピオンだよ。
ナオキだって、2年目じゃまだまだヒドイもんだったさ」
「どっちかっていうと、司馬くんの方がよくやってますよね」
「……ほんとですか?」
「そーうそう! ナオキときたら負けるとすーぐ不機嫌になるし、しかも周りに当たり散らすし、引きずるし。
サイッテーだったよ、ねぇ、片桐さん!」
「はは、サイテーとまでは言いませんけど。大変だったのは、本当ですねー」
「余所者のあたしでもあれはヒドイと思って見てたんだから、片桐さんはほんっと、エライよ」
「へぇ……そんな酷かったんですか。意外です。今は全っ然、そういう感じしないのに」
「成長したんですよ」
「うん、変わったよね。ちゃんと強くなった。……でも、」
ふいに柔らかな顔をして、みきが呟く。
「でも?」
「でも、本当はちっとも、変わってないんだ。走りたがりの勝ちたがり。昔っからずっと、そうだよ。
今だってたぶん、『切り換えてる』っていうよりは……」
「どっちも同じように『素』なんですよね、きっと」
ああ、それだね、と頷く。
「表と裏があるんじゃなくて……どっちかが素で、もう片方がよそゆきでってのでも、なくて。
あのぼけっとしたとこも、きっつい目ぇして走ってるとこも、両方どっちもおんなじくらいに『新条直輝』なんだよね」
「うわ、みきさんてば、ほとんど惚気ですよ今の!」
笑いを含んだからかいの声に、もう、よしてよ、と頬を赤くする。それでも目元が嬉しさを隠し切れていないところが微笑ましい。
「明日は勝ちますよ、きっと。身びいきで言うわけじゃありませんけど、マシンも新条さんも、最っ高の仕上がりになってますから」
「片桐さん、僕だって明日走るんですよー……」
恨みがましく言う司馬に、周囲がどっと笑い声を立てる。
「よーしその意気! いいよ、ナオキなんかぶっちぎっておいで。母国GPだからってエンリョするこたないからね!」
「母国GPなのはお互い様じゃないですか」
「ま、そりゃそーなんだけど」
「しかも新条さんは、僕以上に特別なGPなんでしょう? デビュー10周年の、26歳最後の日の、PPスタートの、母国GP」
「うわ、そーやって並べるとなんか、ものすごいね。……確かに、晴れ舞台って呼ぶには相応しいのかも」
「晴れ舞台、かぁ。……いい響きですね。こんな天気だと、特に」
目を細めて司馬が呟く。視線の先は陽射しの傾き始めた青空だ。秋が深まるにつれてますます澄み渡っていく、蒼穹。
「明日も好い天気になりそうですね。今朝までの土砂降りが嘘みたいだ」
「自分は晴れ男だから大丈夫、って言ってましたよ、新条さん」
「ハレ男のハレ舞台だからハレるはずって? んなの、できすぎだよ」
大袈裟に肩を竦めるみきに、いえ、とクルーのひとりが笑いかける。
「むしろぴったりですよ。新条さんにとってのレースは、まさに『ハレ』の舞台なんでしょうから」
「?」
妙に強調して発音された『ハレ』の音に、居合わせた大半は首を傾げた。
ああ、と呑み込んだ顔をした少数派から声があがる。
「もしかして、『ケ』じゃないって意味で言ってる?」
「あ、すごい。それです」
「だったらわかるよ、『ハレ』の舞台ね。……うん、確かにそうかも知れない。
まるで対極みたいなのに、どっちもおんなじ『素』なんだもんね」
「……なんの話?」
「さぁ……」
顔を見合わせたみきと司馬とがあまりにも不思議そうにしているもので、堪えようとしたのに片桐はとうとう吹き出してしまった。
「あ、ちょっと片桐さんてばヒドイ。解ってんなら、なんの話なのか教えてよ」
「あはは、すいません。お二人がきょとんとしてるのが可愛らしかったもんで、つい」
「カワイラシイって……片桐さん、僕もう19歳なんですけど……」
「んなコト今はいいから。で、なんの話なの?」
はい、と笑いを収め切れないまま向き直る。
「オレもちょっと齧ったことがあるんで、解るんですけど。
民俗学とか、社会学なんかでよく言うんです。『ハレ』と『ケ』っていう対比」
「あー、それ、習ったことあるような……日常と非日常のことでしたっけ」
眉を寄せて何か思い出そうとしている司馬に、頷いてやる。
「そうですね、大雑把に言えばそんな感じです」
言いながら、目を細めて遠いモニタを見上げた。
周囲より少しゆっくりしたテンポで、考え考えインタビューに答える新条が映っている。
「不思議な人ですよね、新条さん。プロドライバーなんて、レースがそれこそ日常になってしまう職業なのに」
数週間おきにやってくる、ルーティンな『ハレ』の舞台。日常に埋没していく非日常。
それが、新条の中では今でも、清々しく張りつめた「特別な場」であり続けているのだ。
プロドライバーになってから10年経とうとする、今になっても、まだ。
「新条さん自身は気付いてないんでしょうけど、確かに彼は『晴れ男』ですよ。だから、見ているこっちが熱くなれる」
重なっていく日常に、躓いても、疲れても。倦んでも、飽きても、挫けても。
降り注ぐように眩しい『ハレ』の日を、いつまでも彼は、失わないから。
「……見ている、だけじゃないだろ」
頷きながら聴いていたみきが、突然不釣合いなくらい不敵な目をして言った。
「あたしたちも、一緒なんだ。レース当日が来るたびに、特別な気持ちで身震いできる」
そうでしょ?と問い掛ける瞳に、笑う。
「ですね。――明日も、きっといい日になります」
「……今年11回目の、『ハレ』の舞台か。うん、悪くないね」
ぱん、と手を叩いた音が、秋空に気持ちよく響いた。
「よっしゃ、がんばろ。最っ高の晴れ舞台、作ってやる! 片桐さん、頼んだよ!」
「ええ、よろしくお願いします、みきさん」
微笑んだ途端、インタビューが終わり、会場に拍手が巻き起こる。秋晴れの空に吸い込まれていく歓声。
モニタの中で照れ笑いしている新条は、今はまだいつも通りの、おっとりと優しい顔をしていた。
[2010年10月]