彼方を目指す


 高校生活なんて、別に大したもんじゃない。
 ついさっき高校三年間を終えたはづきの、それがいちばん正直な感想だった。
 卒業式を済ませて戻ってきた教室は、清々しいような白々しいような、奇妙な雰囲気に包まれている。
 目を真っ赤にしてしまっている女子。さっさと帰りたいと言わんばかりの男子。
 アルバムへの寄せ書きを熱心に集めている子もいれば、貰ったばかりの花束を他人に押し付けている人もいる。
 先生が戻ってきたら各自に卒業証書が手渡されて、自由参加の懇親会詳細が配られて、そしたらあとは、解散、だ。
 つまらなかったわけではない。けれど、卒業したくないというほど居心地がよかったわけでもない。
 親しい子とは卒業したってまた会うし、これっきりになる子とは、別に今更別れを惜しまなくたっていい。
 だから、はづきはひとりで屋上に行った。
 高校生活なんて、別に大したもんじゃない。
 気になっているのはひとつだけ。訊いてみたい人はひとりだけ。
 ――そう、その人、ひとりだけ。

 扉を開けたら、彼がいた。 春の陽射しには不似合いな、重たげな学生服を着た人影。
 穏やかに持ち上げられた顎の角度。空の色を映した眼鏡、手すりの上の仄白い手。
「なにみてるの」
 一声かけたら振り向いた。地味な顔立ち、平板な表情。
 高田晃一、という名前も、ごく平凡極まりない――平山はづきという名前と同様に。

 晃一は、スターでもなければ嫌われ者でもない。秀才でもなければ落ち零れでもない。
 地味で静かで目立たなくて、進学先は確か田舎の公立大学で、この高校出身者なら、まあ中の上というところ。
 クラスも部活も、所属地区も委員会も、はづきとはひとつも重なっていないし、文系理系のコースも違う。
 視線を合わせた覚えもなければ、会話を交わした記憶もない。

 それでも。
 気になっているのはひとつだけ。それを訊ける人はひとりだけ。
「なにみてたの。いつも」
「…………」
 晃一は答えない。小さく首を傾げる仕草は少女のようで、真っ黒な学生服がまた、酷く不釣合いに見えた。

 無口で平凡で大人しい、隣のクラスの晃一が、いつも空を見上げているのに気が付いたのは、昨年の春のことだった。
 その頃の体育の授業はソフトボールで、はづきは生物室で授業を受けていて、窓際でぼんやり外を見ていたら、晃一と目が合ったのだ。
 ――いや、合ったように思ってしまっただけ、だった。
 晃一が見ているのが3階の生物室の窓ではなく、それよりもっと上だと悟ったのは、 彼の眼鏡に映っている鮮やかな青空に気が付いたから。
 それから。
 はづきは時々、晃一を見つけた。
 晃一が空を見上げているのを見つけた。
 他の誰も気付いていないようだったけれど、はづきは、はづきだけは、晃一のそういう姿を時々、見ていた。

 だから今、気になっているのはひとつだけ。答えてくれるのはひとりだけ。
 ――そう、この人、ひとりだけ。
 今目の前に、彼がいた。
「なにがみえるの。空に」
「…………」
「高田くんいつも、空ばっかりみてたでしょう」
「――ちがうよ」
 返された声は穏やかで、すぐ忘れてしまいそうなくらい平凡で。
 傾げていた首を真っ直ぐに戻して、高田晃一は片手を挙げた。
「え?」
 少し短くなった学生服から、華奢と言ってもよさそうな手首を覗かせて。
 すっと伸ばした右の手の、更に伸ばした人差し指の、その先で真っ直ぐ天の頂きを指して。

「空じゃなくて宇宙を見てたんだ」

 ――あ。

 目の裏で、星が弾けた。はづきも手を挙げて、青空を指した。
 晃一が笑った。はづきも少し笑った。
 鳥が羽根を畳むみたいに、伸ばしていた手をふわりと下ろして、晃一は非常階段を下りていった。
「……空じゃなくて宇宙を、みてたんだ」
 伸ばしたままの右手の先を、見上げる。
 快晴の春空の向こう、もっとずっと向こう、薄青が群青に、濃紺に、漆黒に変わったあとの、その先。
 届かないところに、答えはあった。
 知りたかったことはひとつだけ。訊いてみたかった人はひとりだけ。
 ――そう、あの人、ひとりだけ。

 だからもう、三年間に悔いはない。広げた右手越しに、太陽を見た。
 コウイチ、という名前は、ひ・ひとつ・ひかる、と書くんだったな、と、はづきは不意に思い出した。

[2011年3月]