満ちる
女の体には緩やかでしかも抗いがたい周期があると、教えられたのはいつだったか。10歳、11歳、多分そこらだ。
3階の教室、夏休みは間近、梅雨明けまでもう少し、窓ガラスを途切れなく伝う雨の行方を追っていた。月のめぐりと潮の満ち干。
雨樋から溢れる水。溢れる。あふれる。明確に言語化できるような、そんな思考では勿論無い、上がる気温と保健の教科書に、中てられただけの生温い記憶。
「……――、」
微睡んだ一瞬に束の間、あの教室に戻っていた。断片的な知識と空想でしか描けなかった女性性。
目を開けさせたのは湯上がりの温度を残す女の体そのもので、申し訳なさを装った、興奮した瞳が加賀を覗き込んでいる。
「…あー、寝てた」
「起こしちゃった?」
確信犯。カーテンを透かす月明かり、唇の輪郭が薄く笑む。
「寝ちゃう?」
「……いや、」
この状況で大人しく寝ろって方が酷。わざとらしく笑うと、熱くなった吐息が応える。絡め取るみたいにして口付けた。熱い。
いつもなら加賀より少し低いはずの体温の、誤魔化す気も無い上昇曲線。湯船の名残りだけではない。月が満ちる。時がめぐる。厚く、熱く、女の体が熟して落ちる。
雨はとっくに止んでいる。遮るもののない満月。
途切れなく続く除湿機の低い稼働音、薄青いシーツは乾いていて、毛布代わりのバスタオルは、いつの間にやら蹴り落とされている。
ネグリジェの下は、素肌だった。滑り込ませた掌は何物にも阻まれずに乳房に触れる。破れそうに薄い皮膚の下、たぷんと音がしそうなくらいに柔らかな重み。
中に詰まっているのは情欲だと聞いた。月の満ち欠けに揺さぶられるとろりとした欲望。今は、満ちる月に引きずられて、熱い。
今日子と寝るのは月に精々一度か二度だ。予定が合わなければそれすらも無い。
付き合っているというほどではないし、愛し合っているのかなんて言われたらたぶん、笑ってしまう。ふたりとも。
唇を重ね、舌を絡める。肌を合わせ、身体を繋ぐ。求められるから、応える。満たされたいと言うから、注いでやる。それだけの話。
そんな望みを今日子が抱くのは、――少なくとも、あからさまに表面に出すのは、ゆるゆるとめぐる29.5日周期の、夜毎に月が肥え太る頂点、満月の前後の数日だけだ。
抗いがたい周期があるのだと、聞いた。医者の息子であり身近に姉が居り、利発で耳聡く理解の早い少年だった加賀にとって、その知識自体はどうということもなかった。
ただ、それを実感することになっている今に驚いている。今更のように。
胸元の紐をほどく。丸い肩から滑り落とす。晒された乳房は丸く柔く、自分自身の重さに負けて、艶めかしく撓んでいる。
持ち上げて落とすのが好きだ。指の間から流れ落ちてしまいそうな気がして。手のひらで包んで揺さぶれば、身動ぎするように震える。先端の尖りが硬い感触で刺してくるのが判る。
齧り付きたくなる。実際にそうする。
「っ、」
鋭く息を詰める気配。興奮が喉元をせり上がる。そう、いい、もっとだ。舌先でぐるりと転がすように舐って、柔らかな肌の中にぐいっと押し込んで。
「ふ、あっ、ん、んんっ」
唇で吸い付かれるのがお気に入りだから、指先で弄っていた片方はもう、とっくに物足りないらしい。頭を抱えられ、ぐっと引き寄せられ、こっちも、と、言外にきつく強請られる。
そう淋しがるなよ。からかうつもりで強く握る。のに、切羽詰まった動作にしかならない。たぷりと内側が震えた。水にも似た欲情。
もっと強く歯を立てれば、きっと、破れて中から滴り落ちる。満ちた月の重力に引かれて。
「ん…、」
もどかしそうに今日子が身動ぎする。触れる肌がもうはっきりと汗に濡れている。
初めから言い訳でしかなかったネグリジェはとっくに半分以上ずり落ちていて、今更、と思いながら脱がせれば、丸い膝がこつりと閉じる。
「んー?」
手順なんて判り切っている癖に。それでも、初めっからはしたなく、脚を開いて待ったりはしない。そういう女だ。本能の波に呑まれそうでも、ぎりぎりのところで。
儀式みたいに手をかけて、小さな骨の丸みをなぞる。汗。指先がぬめる。ほんの少し力を込めれば、果実が枝から離れるように、閉じ合せていた脚が開く。ひらく。
だろう、そうでもしなくちゃ、とうの昔に限界だ。水気を含んだ音がする。触れてもないのに、脚をただ、開いただけで。
「…うーわ、びしゃびしゃ、」
「う、」
首を振るのは否定ではない。言わないで、と、はくはく開く唇が訴える。聞き入れる訳がない、だって、こんなのもどうせ、儀式のうちだ。
「胸しかいじってねぇのに、」
「、あっ」
「溢れちまってんじゃねーか、ほら」
屈み込んで唇を寄せて、けれど、吸いついてはやらない。舐め取ったのはシーツの上の、びっしょりと色を変えたそこ、ざりっと布に引っ掛かる音が、耳から彼女を辱める。
「ごめん、な、さ、」
「あーあ、ほら、余計こぼれる」
わざとらしい羞恥に耐えるたび、潤んだ粘膜から体液が零れる。別の生き物がそこに息づいているかのような音。
微かな、幽かな窓越しの月影、それでさえもはっきりと、光って見えるぬらりとした水気。煽り立てるように生々しいにおい。
満ちる。融ける。零れて、流れる。溢れてしまう、月のめぐりの、緩やかな周期の、どうしようもない欲情。
彼女の、身体の奥から押し寄せて。男の理性を押し流す。
「あんた、ホントすげぇよな。濡れ方」
「……っ、」
「いっつもこんなんなる?」
どうせこれも、儀式の一部。いつもなんて知らない。他の男はどうかも知らない。
加賀が呼ばれるのは、この波に晒されるのを許されるのは、夜毎に月が肥え太る、極みのこの夜だけなのだから。
「し、らない、」
「ふーん」
別に知らなくったっていい。下腹を焼く、じれったい焔は別に、嫉妬の炎じゃないはずで、只の欲情の煽りなら、他人のことなどどうでもいい。
理屈なんて判らなくても、緩やかに潮は満ちるのだ。
「汚れちまうなぁ、シーツ」
「あっ、」
じゅるりと音を立てて舐め取る。塩の味がする。潮の味。酸味と苦みと塩辛さ、なのに否定しようもなく甘い。
これはなんだ。満ちてくる、溢れてくる、この欲情の正体はなんだ。
知りたい。知りたくない。応えたい。応えたくない。…応えられない。めぐり、めぐる、彼女がどこまでも女である、事実。
「あ、こ、」
「んー?」
「こぼれちゃう、から、…っ、」
「から?」
「……ふさい、で、」
「ん」
どうせもう、指では足りない。直接的で構わない。塞いで、繋いで、つながって、夜が過ぎるのを待つしかない。
「腰、上げな」
「あ…っ、」
溢れてくる。途方もなく深い、甘い、苦い、緩やかな潮。塞ぐなんて出来っこない、――男はただ、押し流されるだけだ。
火照った体を抱きかかえながら、加賀は遠く、満ちる月を思った。
[2015年7月]