夏風邪


「日本では古来より、」
 厳かに今日子は言った。恭しく体温計を捧げ持ったまま。
「夏風邪はバカがひく、と言い伝えられておりまして」
「……バカでーす」
 弱々しい声が答える。本来ならば今日子が眠るベッドの上で、真っ赤な頬をしている加賀が。
 汗で重たい服を替え、真新しいシーツに挟まれて、それでもどうにもすっきりしないまま、火照った体を投げ出している。
「38.9℃。ほんと、バカだわね」
「……もうちょっと優しくしてほしいでーす」
「自業自得でしょ。風邪っぽいのが分かってたなら、無理しなければよかったのに」
「……飛行機の中があんなに寒いなんて思わなかったんだもん」
「嘘でしょ。しょっちゅう乗ってる癖に」
「……だって」
「何よ」
「久々に、逢えると思ったのに」
「……それで寝込んでちゃ本末転倒じゃない」
「いや、そうでもない」
「なにが」
「フィルに看病されるより、きょーこさんの方がいい」
「……フィルに失礼じゃない?」
「きょーこさんに敬意を表してんの」
「そう?」
「てなワケで、よろしくお願いします」
「調子に乗らないで」
「……はーい」
 声の割には元気そうだが、放っておいていいような状態でもない。何しろこの高熱である。
 ある意味で体が売り物の商売、幾らたまたま夏休みに当たっているとは言え、だらだらと臥せっている訳にはいかないのだ。
「解熱剤、飲まなくちゃね。食欲ある?」
「ビミョー」
「何か、これが食べたいってモノは?」
「……きょーこさんをおいしくいただきたいです」
「そんなお約束求めてません」
「すいません」
「お粥なら食べられそう?」
「……もっと水っぽいモノがいい」
「甘いもの?」
「うん」
「桃缶? ヨーグルト? それとも葛湯とか」
「リンゴ」
「林檎?」
「うん。すりおろしたやつ」
 子どものようなあどけなさに破顔する。
 そう、病気の時は心細いものだ。日頃は飄々としているように見える彼でも、少し甘ったれたい気持ちになるのだろう。
「わかったわ、待ってて」
「すっぱくないやつにして」
「はいはい、」
「あーんして食べさせてくれる?」
「……そうして欲しいなら別にいいけど、」
「口移しでもいい」
「…………」
 前言撤回。あどけなく見えるのは態度だけらしい。黙ってベッドの脇に立った今日子に、加賀がマズイ!という顔をする。
「げ、ちょ、ちょっと、病人相手にナニすんの!」
「調子に乗らないでって言ってるで・しょ・う・が!」
「あたたたた、すんませんゴメンナサイ許してくださいぃぃぃ! ……うぁ、アタマ痛ぇぇぇぇ……」
「だからほら、大人しく寝てなさいって。林檎、用意してくるから、ちょっとだけ待っててね」
「……うん」
 額を押さえながらもそもそと布団に潜り込んだ様子を確認し、踵を返した今日子の背に、声。
「……あ、きょーこさん」
「え?」
 弱々しい口調。潤んだ瞳。懸命に視線を合わせながら、加賀はやけに真剣に囁く。
「なんなら、解熱剤の方を口移しでもいい」
「…………」
 こっちの頭が痛くなる。
「……やっぱり貴方、バカだわね」
「知らなかった?」
「知ってたわ、」
「じゃあ、お互いさまってことで」
 にへら、と笑って見せたあと、諦めてもっと優しくしてね、と嘯く。
「……これじゃ、私も分からないわね」
「へ? なにが?」
「夏風邪をひいてしまいそうだわ」
 なんで、と言いかけた加賀に、素早く小さなキスをして、濡れタオルを手に部屋を出る。
「…………あー、なるほど、」
 やっぱりバカは、お互いさまってワケですかー。
 閉じた扉の向こうに響く、笑い混じりの呟きに、今日子は小さく肩を竦めただけだった。

[2011年9月]