わかる?
ぱん、と乾いた音が鳴った。実に実によく響いた。
完璧な角度と十分な速度で打ち抜かれた右手。艶やかに塗られたマニキュアのコーラルピンクがきれいで、あ、新色だ、なんて場違いなことを思う。
その綺麗な右手をすいと降ろして、目の前の今日子が溜め息を吐いた。
「……まあ、これっくらいで足りるでしょ。さ、早く行って」
しっしっと追いやる仕草をされて瞬きする。いやいや、なんだってんですか。こっちはCFレーサーなのに、展開の速さについていけない。
「なにぼーっとしてるのよ。眠いの?」
「……いや、」
呆れ八割、心配二割、彼女らしいバランスで投げられた声にちょっとだけ頬が緩――いや、緩まない。痛い。つい先ほど引っ叩かれた左の頬が、今更じいんと痺れてくる。
思わず左手で押さえると、あら、と困った顔をされた。
「痛い? ちょっとやりすぎたかしら」
「ちょっとっつーか……」
そもそもなんで引っ叩かれたんだ俺。ぐるぐる頭を捻ろうとしても、熱を持った頬の痛みが邪魔だ。
「でもあれっくらい勢いつけないと、なかなか綺麗な跡にならないし、」
「アト?」
「ええ。ほら、今、ちょうど綺麗についてるでしょ」
と言われても自分で自分の頬は見えない。押さえたままの左手の上から、今日子の右手がそっと触れる。
こうして接して初めて判る、柔らかさを持った小さな手だ。まあ、あの通り、しばしばとても力強いのだけれど。
「怒鳴って見せても、結局その場だけだしね。これならもう暫くは持つだろうから、……ああ、そうよ、だから急いでたんじゃない! ほら、早く行って!」
「え、いや、ちょっと、」
ぐぐいと背中を押されて振り返る。まだ呆れたような顔のまま、今日子がこちらを見上げている。
不機嫌というより、立腹というか……うん、そうだな、イライラじゃなくて、怒ってる。
「なによ」
「説明してほしーんですケド」
「なにを」
「こんなコトになってる理由とか経過とか!」
「……本っ当に話を聴いてないわよね、」
ここは否定も言い訳もできないので沈黙を選択。
「一昨日」
「おととい?」
「正確に言うと、一昨日の夜」
「夜……」
「撮られたでしょう。南口。マルヤマ珈琲の裏の、あの細い道」
「……あー、」
そういやそれっぽい気配があったような気がしなくもない。という程度の曖昧さでしか思い出せない。
だって呑んでたし、昨日は疲れてたし、早く帰って寝たい、とばっかり考えてたし。
そうだ、気が散ってた。だから巧いコト躱せなかった。
どちらかというと小柄な方に入る加賀は、モデルだのなんだのといった長身の女性と並ぶと、大体目線が同じになる。
――どころか、相手が踵の高い靴でも履こうものなら、下手すると数センチ上から見下ろされてしまう。
だから、よっちゃったみたいあるけない、としおらしくよろめいて見せたゆるふわミディアムボブ(仮称)に、簡単に口付けられてしまうなんてことも起こるのだ。偶には。
「その所為でちょっとばかり大変だったのよ。おかげさまで寝不足」
とか言う割にはイキイキしてる辺り、やっぱ仕事中毒だなこの人。現実逃避の思考回路に頷いていたら、くいっと耳を引っ張られた。
「また聴いてない!」
「あー、悪ぃワリぃちゃんと聞くって、」
「ちょっとは真面目に反省なさい! そういう適当な態度を取るから騒ぎになるんでしょう?」
「騒ぎってほどの騒ぎじゃねーじゃん……」
きっと眦を吊り上げた今日子を覗き込んで――そう、今日子の身長なら、見下ろすのはこっちの役目だ――ついでに、鼻先にちゅっと口付けてやる。
「っ、ちょっと!」
「あいたっ」
ぺしん、と今度は軽く引っ叩かれて、思わず互いにしかめっ面。なんなんだこれ。
「そういうところが適当だって言ってるのよ!」
「フツーだろ……つーか、今さらっつーかさぁ」
人前でべたべたするのを、今日子はあまり好まない。いや、加賀自身もそんなに好む方ではないのだが、警告とか牽制とか、まあ色々必要な場合もあるにはある訳で。
だからこの関係は周知の事実だし、それがそう簡単には揺らぐまいというのも、加賀自身を含めた皆の共通認識になっている。
「あの程度のコトじゃ、アンタも周りも、全っ然動揺しねぇだろー?」
「そりゃあそうよ、」
つん、と顎を持ち上げるようにして、腕組みをした今日子は眉を寄せる。
「本命は私だ、なんてのは、勿論判り切ってるわよ」
「じゃーいいじゃん……」
「そうじゃなくて!」
かぶせるように、噛み付くように、ちょっと唇を尖らせて。
「そうじゃなくて、面倒起こさないで、余計な期待させないで、不必要に女の子を迷わせないで、って言ってるのよ、わかる?」
「…………」
「どうなの?」
「……わかる。」
「なら、いいわ」
尖っていた空気をふっと緩めて、漸く今日子が笑った。もう一度、右手が加賀の頬に触れる。引いていたはずの痛みがじわりと存在を主張する。
「精々反省して、暫くコレ付けて歩いてなさい」
「んまあオシャレなアクセサリーですことー」
「鮮やかでしょう」
「自分じゃ見えないっての」
くすくす笑う口元を覆う右手は、ああ、やっぱり綺麗だ。
「いいのよ、他の人から見えれば。存分に見咎められて、どうしたのって訊かれて、包み隠さず説明する羽目になって来なさい」
「……女王様の仰せのままにー」
なるほど、そういう経過と理由だったか。言われてみればそうだった気もする、なんて、ここで漸く思い出すようではやっぱり話を聴いていないということだけれども。
からかうように頬をひとつ撫でて今日子の手が離れた。本命の所在を声高に叫ぶ赤い跡は、冷えた空気にじんわりと痛んだ。
[2014年1月]