さよならサンクチュアリ


 踏み込まないままでいることを許されていた、優しい聖域にさようならを。





 葉桜には少し早過ぎる季節に手を触れた、綺麗な、不思議な薄緑。
 その傍らに在り続けた三年間。
 最後の冬が、終わる。

 受験日は2月の頭だった。合格通知はバレンタインデーに届いた。
 入学手続きを済ませ、不動産屋を回り、下見をして引っ越し先を決める間、毎日のように一緒にいた相棒とは、ただの一度も会わなかった。
 緩慢に過ぎて行く自由登校期間。
 間近に迫る別れの日の為の、準備。


「いえーい真ちゃん! ひっさしぶり!」
「……お前は、」
 聞き慣れた、耳に快いくらいの、溜め息。
「こんな日まで騒がしいのだな。相変わらず」
「えー? 真ちゃんだっていつも通りじゃーん」
 嘘だ。いつも通りの、優等生然とした姿はそこにはなかった。学ランのボタンが、見事にひとつも残っていない。
「大体、お前、ボタンはどうした」
 自分のことを綺麗に棚に上げて、緑間は眼鏡をくいと上げ直す。
「知らね! なんか気付いたら全部取られてた!」
「どうせそんなことだろうと思ったのだよ」
「真ちゃんだってヒトのこたぁ言えねーだろーと思うのだよ」
「黙れ」
 小気味よく投げ付けられる非難にいひひと笑う。
「ま、どーせもう着ねぇんだし、いいけどな」
「寧ろ、あんなボタンなど持って行ってどうするのか理解に苦しむのだよ」
「確かに!」
 まあ、風物詩というものなんだろうな、などとよく分からない結論を呟いて、緑間はひとり頷いている。
 陽射しに透ける髪が、綺麗だ。
 いつも通りに。今までの通りに。
「……なー、真ちゃん」
「なんだ」
「オレさー、第一志望、受かってたよ」
「……そうか」
 互いの第一志望を教え合ったのは、センター試験の当日だったか。その一度きりだった気がする。
 それでも、覚えていた。忘れる訳がなかった。
「真ちゃんとこは、来週だっけ。発表」
「ああ。次の水曜なのだよ」
「引っ越しは?」
「20日過ぎになるだろうな。そう遠い土地でもない」
 既に合格を疑っていない口ぶりも、いつも通りだ。
 当然だ。人事を尽くしているのだからな。決めゼリフと、いっそ嫌味なくらい決まってしまうその表情まで思い浮かべて、小さく吹き出す。
 向けられた怪訝そうな顔に張り合うように、力一杯の笑顔を投げる。
「じゃーさ、オレの引っ越し、手伝ってくんない?」





「……真ちゃんてば」
「なんだ」
「いつの間に免許なんか取ってたの?」
「冬休みにな」
「って受験勉強真っ只中じゃね!? 何ソレそんな簡単に両立できちゃうもんなの!? 大学慣れたらすぐ取ろうとか思ってた自分がなんかすっげー行動遅いヤツみたいじゃんなんなの!」
「煩いのだよ、高尾」
 などという会話を交わしてから数日後の、引っ越しの日はホワイトデーだった。
 味も素っ気もないスウェットシャツにジーンズという格好でミニバンを運転して現れた緑間は、引越業者が積み残して行った段ボール箱を後部座席に押し込み、 2時間足らずで引っ越し先まで運んでくれた。助手席に積んだ高尾も、ついでに。

 ありきたりな1DKのアパートの2階、窓の大きな、端っこの部屋。管理人に挨拶をして鍵をもらい、 ガス屋と水道局に電話をし、トラックの到着を待って、荷物を降ろして、運び込む。
「うげ、冷蔵庫、重っ……」
「しっかり支えるのだよ」
「ムリ! 真ちゃんオレとの身長差わかってる!? ちょっとマジでこの体勢ムリって痛い痛いツライ!」
「フン。だらしのない」
「だー!  ひどい真ちゃん冷たい!」
 ぎゃあぎゃあと喚き合い罵り合い、息を合わせてひとつひとつ家具を据え付けていく。
 小さな本棚、勉強机を兼ねた食卓、冷蔵庫に洗濯機、電子レンジ、そしてベッド。
 ただの空間が、部屋に変わっていく。明日から、独りで暮らすための。
 
 一段落ついたところで昼食を取りに出かけて、帰り道のホームセンターでカーテンやら毛布やらを買って、午後からは段ボールを開けて、細々したものを配置していく。
 どうにか人間らしい生活が出来そうな空間が仕上がったその頃には、春の空はとっぷり暮れていた。
「うひー、やっぱ結構かかったなー」
「……今から帰ると、到着は深夜だな」
「つか、その前になんか喰ってくっしょ? 奢るからさ、お礼に」
「当然なのだよ」
「そしたら、帰んのますます遅くなるし」
「……ああ」
「泊まってけば?」
 さらりと言ったら、緑間は一瞬遅れて瞬いた。長い睫毛。ああ、これも、相変わらずだ。
「明日は? なんか予定あんの?」
「15時から、眼科の予約が入っているが」
「じゃ、朝出ればじゅーぶん間に合うじゃん」
「……そうだな」
 頷いた横顔も、相変わらず綺麗だった。点けたばかりの電灯の光に、眼鏡の縁がきらきらと光った。





 近所のラーメン屋で夕食を済ませた。祝杯でもあげたいところだったけれど、年齢の壁と緑間の倫理観に阻まれてアルコール摂取は叶わなかった。
 代わりに炭酸飲料と幾らかのスナック菓子を買い、部屋に戻って風呂を沸かした。
 人事を尽くしたじゃんけんの結果、一番風呂は緑間のものになって、他人の新居で「当然なのだよ」と言ってのけるいつも通りの態度にまた爆笑して、 漸く床についた頃には、既に日付が変わるくらいの時刻になっていた。
「……なー、真ちゃーん」
 灯りを消しても、微かな光が射し込んでくる。古びた、水銀灯の光。
 庭も何もないアパートのすぐ脇は道路で、裏手には駐車場と小さな川がある。ここには静寂はない。独りではあっても、静かではない。
 静かではないのに、――少し、寂しい。
「…なんだ」
「やっぱさー、こっちで寝たら? オレは床でいーからさ」
「ここはお前の部屋だろう。だから、それはお前のベッドだ」
 最後まで言われなくったって、結論は目に見えている。お前がそこで寝るべきだ。低い声がその台詞を形作るよりも早く、大袈裟な溜め息を吐いて言葉を掻き消した。
「お客さんをちゃんとしたとこで寝かせるもんだろ、フツーは」
「普通はな。だが、俺たちは普通ではないのだから、いいのだよ」
 なんだその理屈。つーか普通ではないって何なんだよ。
 もぞもぞと身体の向きを変えると、こちらに向けられた広い背中が視界に飛び込んでくる。
 長身。決して重厚ではなく、かと言って華奢でもない緑間の体格。常識はずれの長距離シュートを生み出す強い肩と、繊細と言ってもいいくらい美しい指先。
 いつもいつもコートで見ていた、そのアンバランスさを、思い出す。
「……じゃーさ、」
「なんだ」
「一緒に寝よ」
「………………バカかお前は」
 たっぷりの溜めの後に盛大な溜息。視線の先で広い背中がもぞもぞと動き、片肘を着いて起き上がるのが見えた。
「一人用のパイプベッドだぞ。男二人が寝るような広さも強度もないだろう」
 うわ、ツッコむところそこなんだ。呆れ半分面白さ半分で笑うと、緑間の視線がきゅっと突き刺さるのを感じた。
「なら、オレがそっち降りるわ」
「高尾、」
 暗闇でさえ、並外れた空間認識能力を奪えない。況してや眼鏡を外した緑間に動きを掴まれるなんてことはありえなくて、だから、その身体の横に滑り込むのは容易かった。
「やっぱ、天井が遠い方が落ち着くなー」
「おい、高尾」
「あ、狭い? もうちょっと寄ろっか?」
「……寄らんでいいからベッドに戻れ」
「いやん真ちゃん冷たーい」
「調子に乗るな!」
 鼻にかかった声を零してみたら叩かれた。ま、無理もないか。楽しくなってくすくす笑う。
「何がおかしい」
「や、おかしーんじゃなくて、楽しーっつーか」
 怪訝そうに顰められる眉。不思議な色をした瞳が、至近距離にある。
 真っ直ぐで透明で、薄闇の中でさえも綺麗な、瞳。
「全く、最後まで妙な奴なのだよ……」
 諦めたらしい柔らかな声音が、そっと鼓膜を震わせた。笑い声を止めないまま、目を閉じる。
「なー、真ちゃん、」
「……まだ何かあるのか」
「最後なんだな。ホントに」
「…………そうだな」
 吐息のように語尾が掠れて、消えた。
 それでも、ここには静寂はない。窓の外から淡いざわめき。夜空を渡る、風の音。
 二種類の、緩やかな呼吸の音と、それから自分の、心臓の音。
 
 とん、とん、とん、と響く鼓動は普段より多分速くて、けれど不思議と穏やかで。
 閉じた目の裏が、じわりと温かくなった。





 傍らに在り続けた、三年間。前を歩いたのでも、後をついていったのでもなく。
 一緒にいた。隣にいた。同じ世界を、見ようとしていた。

 単に仲が良かったというのとは違う。
 よき相棒だったというのともきっと違う。
 少しずつ少しずつ降り積もって行った自分の気持ちに本当は気付いていたし、多分、緑間の方も薄々はそれを知っていた。

 緑間が自分に向けている気持ちがどんなものなのか、それについてはよく判らない。
 けれど多分、よく似た気持ちだろうと思っていた。何の根拠もないけれど。


 青春の日々は瞬く間に過ぎる。
 三年間。最後の冬。気付けば、18歳になっていた。
 自分がコドモだというつもりはない。けれど、オトナでもないことは解っている。そう思えるだけ多分、周りよりは少し早熟で、多少聡明で、そして現実的なのだろうと思った。

 だから、その先は望まなかった。永遠は願わなかった。
 言わなかった。告げなかった。認めたくなかったから、隠した。


「…真ちゃん、」
「…………」
 返事はない。けれど、許されているのがちゃんと、分かった。
 目の前にある右肩に、こつりと額を押し当てる。体温。しなやかな筋肉の弾力。
 ずっと傍らにいた、大事な相棒の、身体。
「最後だからさ」
「…だから、どうした」
「手ぇ、触ってもいい?」
「…………」
 勝手にするのだよ、とか、何を言い出すんだお前は、とか、言われなかった。
 ただ、ゆっくりと身動ぎする気配があった。目を開ける。
 天井を見つめていた筈の緑間が、身体ごとこちらを向いていて、
「――――っ、」
 そして、長い指がそうっと、頬に触れてきた。
 なんだこれ。どういうことだ。触ってもいいかと訊ねたんであって、触ってくれとは言ってないのに。
 頭の中で一斉に弾けた無数の言葉の、どれも口から出て来なかった。零れたのは、思ってもみなかった言葉で。
「……テーピング、ないんだ」
「当たり前だろう」
 緑間はもう、バスケをしない。そんなの、知っていたのに。
 大きな手のひら、長い指、爪の先まで完璧に手入れされた彼の最強の武器が、かつてと違って無防備に外気に晒されていることに、本当はとっくに気付いていたのに。
「やっぱ手ぇ、でけーなぁ」
「大したことはない」
「そりゃ、真ちゃんから見りゃ、そうなんだろうけど」
 でも、自分にとっては。
 ――手のひらを重ねて、そのまま自分の頬に押し当てた。緑間は小さく身動ぎしたけれど、拒まれている気配はなかった。
 使いこまれた手のひらはやっぱり硬い。なのに指の先は滑らかで、そして微かに冷たかった。
「……たからものだもんな、」
「何を、」
「真ちゃんの手。……シュートを撃つ、真ちゃんのこの手」
 口付けた。今でもやっぱり綺麗な、指先。ぴくん、と手首が跳ねる。
「……オレにとっても、宝物だった。いっつも見惚れてて、」
 自分の手のひらが押し出したパスが、すうっと吸い込まれるみたいに収まっていく両手。
 泣きたくなるほどの正確さでなぞられるシュートモーション。放たれる軌跡。
 ボールがぱさりとネットを揺らす頃、最後まですっと伸ばされたままの指先の、その美しさをいつも見ていた。
 ゴールの成否なんて、気にもならなかった。
 絶対だったから。
 絶対に入るって、放たれた瞬間に判ってしまっていたから。いつも。
「いつも、触りてぇなって、思ってた」
「…………」


 単に仲が良かったというのとは違う。
 よき相棒だったというのともきっと違う。
 友情だと言えばそれで済んだ。信頼だと言えばそれでも良かった。
 憧憬であり羨望であり、愛着であり親愛でもあった。
 
 大切な人だった。特別な人だった。
 どんな定義づけでもいい。
 好きだった。

 言わなかったのは、告げなかったのは、認めたくなかったのはただ、触れてみたい、という明確な欲望があった所為だ。どう理屈をつけても、それは友情の範囲を超えていたから。
 踏み込めるか、と己に問えば、それはもう何の躊躇いもなくYESだ。
 ただ、行き詰ったとしても後悔しないか、と問えば、――頷くことは、出来なかった。

 もっと幼かったら、悩む隙もなかったかも知れない。もっと愚かだったら、苦しむこともなかったかも知れない。
 或いはもっと、――もっと、ずっと、大人だったら。

 ああ、でも、そうではないのだ。人より少し早熟で、聡明で、現実的なだけの高校生。
 日常の範疇からはみ出してしまう熱を、一生涯守り続ける自信なんてなかった。
 今がよければそれでいいなんて、割り切ってしまう余裕もなかった。


 だから、今。
 最後だと、明日からはもう離れ離れになってしまうと解っている今だから、やっと。

「真ちゃん、」

 真ちゃん。

「オレ、ずっと、お前に触りたかった」

 今になって、やっと。
 ――友人同士では踏み込まない筈のところに、臆病な一歩を踏み出せる。


「……高尾、」
 聞き慣れた声に呼ばれる。息が詰まって、苦しくなる。
 耐え切れなくて目を閉じたら、熱くなった瞼にそっと唇が触れた。
「し……」
「俺は」

 思わず見開いた目に、真っ直ぐに映る緑がかった瞳。
「お前のその眼を、……宝物のように、思っていたのだよ」
「っ、」
「触れてみたかった。俺を見抜いてしまう両眼や、いつも笑っているその頬や、」
 言いながら、唇がふわりふわりと落ちてくる。祈るような。小さな、優しい感触。
「――思いもよらないようなことばかり考えつく、頭に」
 額に触れた唇がひんやりと感じられて、どれほど自分が熱くなっているかを思い知る。

「俺も、ずっと、お前に触りたかったのだよ、……高尾」


「……なんだよ、」
 泣いていいのか笑っていいのか判らない。ただ、くらくらと目眩を感じていた。
「おんなじかよ、真ちゃん」
「同じだな」
 緑間の方は笑っていた。頬を撫で、額を撫で、鼻筋をつうと撫で下ろして、笑った。
 オレと、おんなじきもちかよ、真ちゃん。
 口に出さなかった台詞まで、聞こえたような顔をして笑った。
 しがみついた身体を、緑間はぎゅっと包んでくれた。
 喧騒がふいに遠くなった。





 例えばそれは、よく晴れた春の空の青さとか。桜並木の若葉の色とか。
 透明な夏の夕焼け、銀色の三日月、細い光の筋を引いて消える蛍、とか。
 冬の朝の、誰もいない廊下の、あのしんと透き通った気配とか。
 そんなものを思わせる温度だった。
 
 緑間の体温。ひんやりとした指先。
 ずっと見ていた、いつも見惚れていた、オレの宝物。

 真ちゃん。
 真ちゃん。
 オレの温度は、お前にはどう伝わっているのかな。
 陽射しに温められた屋上のコンクリとか。黄金色に光る秋の夕暮れとか。
 うだるような残暑の午後、チョークの音の聞こえる居眠り、降るような星空の下で買い食いするあんまんの湯気、とか。
 夏の夜明け、世界が薔薇色に染まり始める直前の、驚くほど静かな空気とか。
 そんなものを思い出してくれたらいいな。

 宝物だと言ってくれた、オレの眼、オレの頬。
 オレの存在。


 その先は望まなかった。永遠は願わなかった。
 ここでしか叶わなかった。ここでしか許されなかった。
 
 三年間という括りで切り取られる、二度と後戻りできない聖域。
 永遠なんてないのだ。それは痛いほど、解っていた。


 なあ、真ちゃん。
 真ちゃん。
 オレたちは、変わるよ。心も。体も。居場所も、立場も、考え方も。
 今はまだたぶん若すぎて、触りたくて耐え切れなくて苦しかったりするけれど、いつかまた、穏やかな気持ちだけ抱えて笑い合えるようになるよ。
 
 オレに会ってお前が、変わっていったように。
 お前に会ってオレが、変わっていったように。
 離れることでもきっと、オレたちは変わる。変われる。
 それはちっとも、悲しいことなんかじゃなくて――。


 明け方の浅い眠りの中で見た夢は、一年生の時の教室の、いちばん後ろで微睡んでいる、自分たち二人の夢だった。





「――よし、出られる」
「忘れもんねぇ?」
「大丈夫だ。もしあったとしても、お前が送ればいいだけのことだしな」
「えー、じゃあ真ちゃんの新しい住所教えてもらわねーとー」
「決まったら連絡するのだよ」
「……頼むぜ」
「ああ」
 忘れ物なんかある筈がないって、もちろん解っているのだけれど。
 いつものように軽口を叩いて、いつもとは違う扉を開けた。

 駐車場に停めてあるミニバンに乗って、二時間足らずの時間をかけて、緑間は自宅に戻る。
 離れ離れに、なる。
 でも、それはちっとも、悲しいことなんかじゃなくて。

「真ちゃん、」
「……なんだ」
「またな」

 見慣れた眼鏡の奥の瞳が、聖域を離れてもやっぱり美しい瞳が、見たこともない優しさで微笑んで。
 そして、


「ああ。またな」





 バイバイ、オレらのサンクチュアリ。
 名付けようのない気持ちが許されていた、優しい聖域にさようならを。


[2012年9月]