ごちそうさまに至るまで


 腹減った、は新条直輝の口癖である。もっとも、実際に口に出ていることは少ない。言わば脳内口癖だ。
 カロリー制限は仕事のうちだし、新条は自分の仕事を愛しているから不満は無い。不満は無いが、つらいことはつらい。
 だから身体はよくしたもので、知らないうちに代替策を見付けて来た。 置き換えである。フロイト的過ぎて鼻白むが、満たしようのない食欲を、年頃の男性らしい別の欲求に押し付けてしまおうと、そういう結論になったらしいのだ── 新条に、逞しくも可愛らしい、パートナー兼恋人が出来たそのときから。

 さて、食事の成否はまず、前提を外さずにクリアできるかどうかに懸かっている。「新鮮で健康な素材からでなければ、美味しい料理は生まれない」。それが大前提である。
 不機嫌だとか疲労困憊、憂鬱だとかぼんやりとした不安、そんなモノに瑞々しさを侵されてしまっているようでは駄目だ。 そういう場合はまずはしっかり労わって、精一杯労って、甘やかしたり励ましたりゆっくり休ませてやったりして、万全の状態を整えるところから始めなくてはならない。
 問題なく前提が準備出来たら、時間的余裕と体力ゲージとを確認の上、まずは視覚と嗅覚から始める。 いつも明るくてきぱきとした彼女が、少し甘えた顔をしているだとか。湯上がりの肌から、柔らかな花の香りがしているだとか。例えばそんなような気付きから。
 ああ、いいかお、いいにおい。なんておいしそうなんだろう。 そそられたところで、満を持して味覚。ついでのようにじわじわと触覚。 はやくたべたいと騒ぐ口をうっすらと開いて、ふわふわと柔らかく仕上がっている唇を啄む。 舌先で突いて、唇で挟んで、前歯の先で甘く噛んで、薄くしなやかな肉の感触を楽しむ。血の味が混じるなんてのは無粋だ、ほんのりと微かに甘い、それだけでいいし、それだけがいい。
 たっぷり味わった後は聴覚。ん、と小さく漏れる鼻にかかった声、はぁ、と零れる息に滲む切なげな色合い、ひとつひとつ逃さぬように拾い上げて呑み込む。 滲み出した体液が絡まる濡れた音、剥がされた衣服の滑り落ちる衣擦れの音、急き立てられるようにぶつかり合う歯や爪が時折かつりと鳴る音も、振りかけられたスパイスのようでいい。 欲を言えば舌足らずに名前を呼んでくれる声がいちばんなのだが、それはまあメインディッシュと同等の扱いとして取っておくとして。
 うん、おいしい、と小さく唇を舐めて微笑む。おいしいけれど、まだたりない。もっともっとたべたくなる。 かぷりと耳朶を噛んでみる。少しきつめに首筋に吸い付く。胸の膨らみに歯を立て、指の間をじとりと舐る。太腿を甘噛みし、膝の丸みに唇を寄せ、背骨の窪みを舌でなぞる。
 おいしい。ほんのりと甘くてうっすらとしょっぱくて、柔らかいのに弾力があって、温かくていい匂いがして、かわいくって、いとしくって、おいしい。 唇が自然に持ち上がり、目元が自然に緩み切って、ああ、おいしい、おいしい、うれしい、うれしい、かわいい、かわいい、そればっかり頭の中をぐるぐる跳ねまわるようになるその頃には、 遠慮やら気遣いやらなんてものはもうとっくに何処かに吹き飛ばさられてしまっていて。はくはくと、飢え死に寸前だったみたいにがっつくだけ。
 隅から隅まで。何から何まで。かわいらしいつむじからちっぽけなあしのつまさきまで、全部、欠片も残さず味わい尽くさなければ終わらないのだ。
 最後の最後、悲鳴みたいな可愛い声を上げてびくびく震える身体を抱き締めて、ああとってもおいしかった、と、深く満足の吐息を吐いて、新条はぺろりと唇を舐める。
「どうも、ごちそうさまでした。」
「……アンタの、エサになったおぼえは、ないんだけど、」
 整い切らない呼吸の下から、途切れ途切れの甘い声。赤く染まった両の頬、潤んだまんまの瞳がゆらり、呆れた色で新条を見ている。
「でも、おいしかったから」
「…………」
 言うだけムダか、と言わんばかりの溜め息も、気怠さに彩られていてかわいらしい。
「…あ、そーだ…スイッチまだ、いれてないっけ……?」
「炊飯器か? さっき入れといたぞ」
「あー、ありがと…」
「明日は?」
「焼き鮭」
「この前届いた奴?」
「うん、楽しみにしてて」
「そうする」
 期待に唇を綻ばせながら、笑う。 パートナー兼恋人兼、新条専用美味しいお料理兼新条専属料理人である城之内みきにもう一回キスをして、新条はようやっと、みたされた思いで目を閉じた。

[2014年3月]