青い闇から
遠慮がちに開け放った扉から、溢れてきたのはラプソディ・イン・ブルー。
青い光に満たされた舞台は眩しいというより寧ろ輝く闇のようで、柚月は思わず目を細めた。
(ごめん、遅れた)
唇の動きだけで囁き、友人の隣に滑り込む。漸く目を開けて舞台を見たとき、今度は目を丸く見開くことになった。
叫ぶように、しかも朗々と鳴り響くクラリネット。
吹いているのは、いつも目立たないクラスメイトだった。
蝉の声が、頭の裏側に貼り付いたみたいに鳴っている。
クーラーの無い三階は暑い。黒板を叩く単調なチョークの音。子守唄にすらならない数式解説の声。
だるい。正直に言えば、とっとと眠ってしまいたい。けれど、眠れない。
斜め前でうとうとしている色白の横顔から、どうしても目が離せない。
田村良雄。平凡な名、平凡な顔。
小柄で、丸顔で、柔らかい、細い髪をしていて、童顔で、おっとりして、物静かで、本が好きな、どうみても十八歳には思えない同級生。
(うそつき。)
声に出さずに罵ってみる。舟を漕ぐ彼の手から青いシャーペンが滑り落ち、机の上でかしゃんと音を立てた。
慌てたように目をあける。ペンを拾う。振り向いて、目が合う。控えめに笑う。
「ドジ」
小声で言ってやり、柚月は今度こそ目を閉じた。
受験生には相応しくないはずのライブハウス通いを、柚月はもう半年近く続けている。
店主の趣味と厚意により、月に一度、金曜の夜、王道中の王道という厳選されたジャズを聴かせてもらえると、年上の友人から吹き込まれたのだ。
照明が落ちる。歓声も嬌声も影を潜め、何処か隠微な沈んだ興奮が店を満たす。
軽い緊張に背を押されながら扉を潜った柚月は、今夜もまた、舞台の上に彼の姿を見た。
今夜の曲はキャラバン。うねるビートはまるで、絡み合う男女の心音を重ね合わせたように。
嘘だ。
こんな色気、高校生には出せる筈が無い。
たとえ理解出来ても、自分で作り出せる筈が無い。
ましてや、あんな奴に。
それでも事実は変わらない。軽く首を傾け、仰け反るように背を伸ばして、彼は音を迸らせる。
信じられない思いが軽い陶酔に変わっていくまで、柚月はその姿を見つめ続けた。
「木下ーぁ」
廊下で呼び止められて、柚月は立ち止まった。田村が教科書片手に歩いて来る。
至近距離、イヤホンから零れてくる音を拾って、思わず笑う。
「これー。桂木がねー、木下に返しといてくれって言うからぁ」
「サンキュー、ベニィ」
教科書を受け取りながら、呟くように。彼はぴくっと背筋を伸ばした。
「音漏れしてるよ、シング・シング・シング。ヨイオトコと書いてヨシオか。御誂え向きじゃん、あんたの楽器」
「木下……」
丸っこい瞳が、意外そうな光を湛えて柚月に注がれる。
「……知ってんの? 俺が吹いてること」
「うん」
「いつから?」
「六月の、ラプソディ・イン・ブルーから」
「そんな前から……」
「偶然」
「なんで声かけてくれなかったん?」
「その方が恰好良いでしょ」
彼は一瞬沈黙し、それからゆっくりと笑った。
いつものような子供っぽい笑顔ではなくて、そう、うねるようなあのビートに、酔ったような甘い笑顔で。
「解かってんじゃん、木下」
「あんたもね」
多分、他の誰にも分からない。二人は目を合わせ、にやりと笑った。
[09年7月]