灰色に暮れる


 ――週末は冷え込む、という予報だった。 確かに、黄昏に染まった街は窓越しに眺めても如何にも寒そうで、寂しげで、少しの間そこから動けなくなってしまったくらいで。 晩秋の感傷を振り切って漸く作業にかかろうとしたところを呼び鈴の音に邪魔されて、もう半時間ほどが経つ。
 テーブルを挟んだ正面で大儀そうにドーナツを咀嚼している男を見つめ、今日子は改めて小さな溜め息を吐いた。
「……ナニ?」
 きょろりと目を上げて彼が訊く。猫のように俊敏な眼差し。 口調も身振りも、サーキットでの振舞いも、それこそ猫のように気侭で軽やかで大袈裟な彼は、 10分かけてもまだごく小さなドーナツひとつを食べ切れずにいる。
「貴方がまだ1つめを食べ終わらないのに、あっさり2つとも食べ終えてしまった自分に軽い失望を覚えているところ」
 勿論、そんなのは嘘だったが。
「カロリー摂取の面で? 何か別の視点で?」
「意地汚い、とでも思われてやしないかと突然不安になりましたの」
 大袈裟に眉を顰めて科を作ってみせると、俺に意地汚いなんて言われちゃオシマイだよな、と、もっともなことを言って笑う。
 馴染んだ、手馴れた、軽口の応酬。いつの間にか数年来にも亘る付き合いの中で、繰り出されるからかいの台詞も過激な冗談も、 何気ない気遣いもささやかな甘えも、お互いにすっかり受けとめられるようになってしまった。
 そう、数年来。小さな変化を呑み込んで、肝心のところは何ひとつ変えられないまま。 黒でも白でもない曖昧な関係。長い長いグレーゾーンを抜けられないまま、また秋が過ぎていくのだ。いつもと同じように。
 それなのにさっきから、この違和感はなんだろう。 小さな溜め息の本当の理由を頭の片隅で転がして、今日子は少し冷めてしまった紅茶を口に運んだ。

 何の予告もなく現れた彼は珍しくドーナツの箱を手にしていて、どうしたの、と問うともらったなどと言う。 彼が甘いものを苦手にしているのはほんの一ファンさえ知っていることで、だからそんなのは嘘だとすぐ判るのだが、 それを指摘して何になるとも思えない。だから今日子は、そう、とだけ言って黙った。
 それから、何でもないような顔をして紅茶を淹れた。アールグレイの香りが沈黙を埋めてくれるようで、ほっとする。
 ――ほっとする、などと思った自分に驚いた。何を今更、緊張しているというのだろう。 それこそすっかり馴れ合ってしまった、この親しい男を相手に。

 やっとのことで最後の一口を押し込んだ彼が、ぺろりと指先を舐めている。 それこそ猫じみたその仕草を見ながら、今日子は漸く気が付いた。
 微かな違和感。今更な緊張の原因。
 ――彼の視線が、気になるのだ。奇妙なほどに。
 いつも通りの軽口と裏腹の、いつも通りでないその目。 彼女を見ているようで見ていない――見ていないようで見ている――彼らしくもなく、落ち着かない眼差し。
 そういえばさっき、不自然に目線を逸らされた、ような。気付いた途端に息が止まって、今日子は思わず自分の肩を抱いた。
 彼の訪問はまさに不意打ちで、着替える暇も与えられなかった。だから着ているのは普段着の、というか部屋着の薄いセーターだ。 薄手だが滑らかで暖かい、深く柔らかな灰色のカシミア。 ぴたりと貼り付く薄い布地は、身体のラインを必要以上にはっきりと見せてしまう。 それが分かっているから、普段はこんな恰好はしないのだ。少なくとも、男の前では。
 ……いくら親しいとは言え、家族でもなんでもない、こんな、若い、男の前では。
「きょーこさん、」
 その彼が不意に顔を上げたので、今日子は息を呑んだ。事故みたいに目が合う。ぱちりと火花が散ったような、錯覚。 あ、と小さく声を上げかけて呑み込んだ彼の目が揺らいで、一瞬だけ、隠し切れなかった何かが零れ落ちた。
 ぞくりと、する。
「……紅茶、もう一杯ちょーだい」
「あ、……ごめんなさい、気が付かなくて」
 無理に大きく笑って、立ち上がった。背中に感じる視線を無視して、キッチンへ向かう。
 うまく、気付かないふりが出来ているだろうか。それらしく見えていればいいけれど。 願うようにそう考えながら、ティーポットに茶葉を入れ、湯を注いだ。 耳朶が熱い。砂時計の砂を目で追いながら、抑えた呼吸を繰り返す。
 確かに、今日子は軽い女ではない。寧ろ晩熟とか、堅物と呼ばれる方だろう。 それでも、恐らく加賀が思っている――彼女のことを、未だに処女ではないかと思っている可能性すらある――よりもずっと、 今日子の男性経験は豊富だ。いや、豊富とまでは言えないにしても、この年齢の女性としては充分、という程度ではある。

 だからちゃんと、判ってしまった。読み取れてしまった。親しい友人であるところの彼の、視線に滲み出た渇き。欲望の色。
 今、彼が自分の背中を見つめながら、頭の中でこのセーターの下を想像しているであろうことも。 それを確かめたい衝動を静かに抑えて、このままの曖昧な関係を保とうとしていることも。はっきりと。

 グレーゾーン。曖昧な、曖昧すぎる関係。はっきりさせてしまえばまた、真っ白な気持ちに戻れるだろうか。
 それとも、それは堕落を意味するのだろうか。真っ黒な、深い深い夜の底へと溺れていくことを。

 わからない。
 溜め息さえ吐かずにそう結論付けて、今日子は後ろを振向いた。
 ぶつかった視線を逸らさずに、何でもないような顔をして、今度はミルクティーにする?と、訊いた。


[09年11月]