へは平和のへ
珍しいものを見ている。その自覚は、新条直輝の切れ長の目を、瞬かせるのではなく眇めさせた。
だって、加賀が、酔っぱらっている。あの加賀だぞ。酒が好きで、勿論強くて、呑み方も遊び方も充分過ぎるくらいに知ってる筈の、加賀だぞ。
恐る恐る、近付いてみた。木目の美しい品のいいテーブル、バーでもありダイナーでもあるこの小さな店の、趣味の良さを存分に物語るその一品の上に、だらしなくべったりと貼り付いているよく見知った男。うん、加賀だ。残念極まりない。
「おい」
「……んー?」
「んー?じゃない。何クダ巻いてんだ加賀」
「んあ? なんだ、おまえかぁ……」
ちらりと向けた視線が忽ち興味無さそうに落ちる、覇気のない態度に溜め息が出る。
「なんだとは失礼だな。…しっかりしろよ」
「んー、してるしてる」
「してないだろ、」
「だあってさぁ……。んー……」
「何だよ」
「……しんじょー……なぁ、おまえ、知ってた?」
「だから、何を」
「きょーこさん、処女なんだとさ」
「は?」
ちょっと待て今なんかすごく踏み込みにくい部分に関わる単語を吐かなかったかこの酔っ払い。聞き間違いだと思いたい、思ってさらりと受け流したい、というか此奴の口を今すぐ何かで塞ぎたい。例えばそこのおしぼりとかで。
「つーか男と付き合った経験自体ないんだと。ホンモノだったわ、あの人ホンっト絶滅危惧種の箱入り娘そのものだったわビックリだわもう……!」
あー駄目だ塞ぐ隙なんてどこにもなかった。寧ろ何となく声に力が戻り始めたことに気付いて天を仰いでしまう。神様、どうかせめて、周りのみんながこの会話に聞き耳を立てていませんように。
「じょーだんだろ、ありえねーだろ、マジ信じらんねーよこの状況、だってあのヒト、年上だぜ? 俺より長く生きてんだぜ?」
「お前の童貞喪失年齢を基準に考えても無意味だけどな」
挿し込んだ皮肉など意にも介さない。酔っ払いの饒舌は止まらない。うん、まあ分かってましたけどね。経験則で。
「……で?」
あ、しまったうっかり相槌打った。ぐてりと頭を落していた加賀が、ばっ!と音を立てる勢いで身を起こす。あー莫迦だった余計なことした。
「で?じゃねーよ! タイヘンな話だろコレ!」
「何がどうして大変なんだよ」
ああもう畜生、乗り掛かった舟か、両足揃えて飛び移るしかない。たとえそいつが巨大な泥の舟だとしても。
「……考えてもみろ」
「何を」
「推定Eカップの、あの胸!」
「はぁ?」
「揉み応えありげな、あの尻!」
「……はあ」
「白シャツから透けて見えるブラ線! 脚組んだときに見える太腿! 髪かき上げた時の、あの、項のライン!」
「……結構色々気にして見てるんだな……」
「あのカラダにあの格好で簡単に呑みに誘ってくるとか何の警戒もナシにあっさり潰れちまうとかさ! しょっちゅうヤラれてる俺の身にもなれってんだよ!」
「それは気の毒だ確かに。っていうかそこまで隙があるのに手ぇ出してなかったのかお前」
「とーにーかーくっ! 今、ただでさえあんなにエロいのに、なのにまだ処女だなんて……もし男が出来たりしたら、え、なにか? 今以上か? 今以上にエロくなんのか?」
「いや、俺に詰め寄られても困るし」
「そんなんなったら……そんなエロい事態になったら、俺、どうすりゃいいんだよ!」
「ったって、」
「無理無理無理、マジもう無理、ぜってー襲う、つーかぶち犯す、ヤバいってダメだってこれ以上すり減らしたらいくら俺の理性だってぶっちぎれるに決まってんじゃねーかちくしょおおおお!」
「………………うわあ」
翌日、夕刻。
「ハーイ! 加賀チャンいるー?」
「ジャッキー・グーデリアン? どうしたのよわざわざAOIになんて」
「いや、なーんか、加賀をもっとアソビに誘ってくれって、頼まれちゃったからさぁ」
「……誰に? っていうか、どうして?」
「さあ? 詳しいことはよくワカンナイんだけどー」
「なんだアレ。誰がんなコト頼んだんだ? 新条、おまえ、なんか知ってる?」
「知らない。それより加賀、折角のお誘いなんだから行って来いよ、ほらほら」
「……なーんかオカシイんだよな今日のおまえ。なんだよ、俺、なんかしたか?」
「さあなどうだろうなおれはなんにも知らない!」
「ったく、なんだってんだよ……」
今日もAOIは、平和です。
[2013年10月]