ハははがきのハ(―― No MESSAGE from you.)
「…………」
郵便ポストを開けたまま、今日子は暫し足を止めた。
吸い込んだ息が喉元で凝る。世界の音が遠ざかる。
一枚のはがき。差出人の名は無い。けれどその筆跡には――弾むようなリズムのある、些かせっかちな印象のそれには、馴染みがある。よく知っている。
ピンを取り上げて、下駄箱の上のコルクボードに留めた。奥から、固定電話の呼び出し音が聞こえた。
初めてそれが届いた頃には、今日子はまだ二十歳そこそこの歳だった筈だ。
それから毎年、そっけなく書かれた宛名以外の一切の文字を乗せないまま、一枚のはがきが今日子の下に届く。
2月のはじめ。年賀状にしてはあまりにも遅く、バレンタインカードにしては幾らか早すぎる時期に。
差出人の名は無い。一言のメッセージも無い。裏面は文字も文様も無い写真だけで、人物が写り込んでいることもまず無い。
官製はがきでは無いそれはけれど差出人の手作りというのでもなさそうで、
例えば雑多な街角や気紛れな蚤の市で、ぽつりぽつりと売られている、写真家の卵の小遣い稼ぎといった印象のもの。
最初はチューリップの花束の写真。それからどこか異国の城。
その次は確か、二日月と明星。その次には逆光と鳥。
そして、何度目だろう、最早恒例となってしまったそのはがきを受け取った朝、――今日子は不意に、気付いたのだ。
冷たい空気に、瞬きをした。きらきらと弾けた陽射しが、奇妙なくらい眩しく見えて、吸い込んだ空気が喉元でひゅうっと、鳴った。
新型の公開を目前に、活気と焦りで熱を帯びるチーム内を、かつかつヒールを鳴らして歩く。
あ。視界に飛び込んできた派手な佇まいに、一瞬だけ意識を止める。きらきら。目の裏を今朝の余韻が横切る。
そこここに調子のいい挨拶を投げながらすたすたと、彼がこっちに近付いてくる。当たり前のように、目が合う。
ちかちか。辺りが、眩しくなる。
加賀くん。
そう呼びかけたくなる。
ねえ、加賀くん。
加賀くん。加賀くん。
あのね、これ、もしひょっとしたらなんだけど。
かがくんもしかして、
もしかしてもしかすると、
わたしのことすき、
だったりする――?
きゅっと唇を引き締める。呑み込んだ衝動は一瞬。
今朝も彼はいつもの通りで、よっ、きょーこサン、とおどけて手を挙げる。
だから彼女もいつも通りに、おはよう、加賀くん、と微笑みかける。
けれど。
絡まった視線がほんの少し、照れたように細まるのに気付いたそのときに。
何かが動き出したのを、感じた。
星を映す湖。薄紫の夕焼け。青く霞んだ、遠い島影。
ぼんやりと雲を纏った山、朝露を含んだシロツメクサ、目を凝らさないと見えないほど小さく映った、どこかの古びた遺跡。
今年もまた、差出人の名の無いはがきが今日子の下に届く。
立場が変わり、住所が変わり、容姿も、家族も変わった今でも同じように届く。
奇妙なそれは告白だ。答えをやんわり拒む告白。
気付いて欲しいのか欲しくないのか、届いて欲しいのか欲しくないのか、矛盾を孕んで思わせぶりな、人騒がせな愛の言葉。
だから、目立つところに貼ってやる。今年もちゃんと受け取った、と、伝わるように見せつけてやる。
帰国予定は明後日だ。自分の送った名無しのはがきが、玄関先に飾られているのを、今年の彼はどんな顔をして見るだろうか。
「――もしもし。ああ、終わったの? お疲れさま。……ええ、明後日よね、迎えには行かなくていいのね?
……ふふ、大丈夫よ、そんな急に生まれたりしないわ……そう、よろしくね。ええ……そうね、楽しみにしてる……」
目を細めて見やる玄関の脇。
今年の分のはがきには、赤いカーネーションが咲いている。
[2014年2月]