.5[HALF]
――来てくれるなんて、思ってなかった。
だからロビーで彼女と向き合ったときは、……とても平静では、いられなかったのだ。
ちょっとでも触れたら、抱き締めてしまいそうだったから、
一歩も、動けなかった。
忘れない。彼女を手に入れて、そして失った、短い秋の夜。最初で最後の、一度きりの。
表彰式のあとの自分は酷く酔っていて、ぼろぼろ剥がれた理性の隙間から、たぶん本音が丸見えになってしまっていたのだ。
少しだけ酔いが醒めた頃、来たわ、と手を差し出した彼女は、泣きたいくらいに綺麗だった。
忘れてる? さっき言ったこと。……ああ、やっぱり酔ってたのね。
何も覚えていなかったけれど、何か彼女を困らせたのだろうと思った。見慣れてしまった呆れ顔が、それでも少し、優しかった。
そんなことだろうと思ったけど、……でも、さっき、約束したの。あとでちゃんと、迎えに行くって。
そうして、繋いだ手は震えていた。彼女がなのか、自分がなのかは判らなかった。
黙ったまま潜ったホテルのエントランスには大きな水槽があって、青白いガラスに自分たちが映っていた。
水面が揺れて、光が揺れて、――映る自分たちの姿がまるで、泣き顔のように、歪んだ。
加賀くん、と呼んだ、彼女の声を覚えている。少し掠れた、聞いたことのない声。
――分かっていた。きっと泣かせる、ということは。お互いに、傷付け合うだけだということは。
それでも、触りたかったのだ。
気付いて欲しかった。
愛しているなんて言えなくて、ついて来てくれとも言えなくて、
……言ったところで、彼女が頷くはずもなくて。
嬉しい、と微笑んで頷くような女なら、初めから好きにならなかった。
互いの道を、別々に生きる。その覚悟を背負って、それでも顔を上げている彼女だからこそ、惹かれたのだ。
だから。初めから、分かっていた。知っていた。傷付くだけだし、傷付けるだけだと。
それでも、触れたかった。
――彼女に、気付いて欲しかった。
忘れないで、なんて言わない。忘れてしまっていい。
それでも。知っていて欲しかった。
愛していたと。――違う、愛していると。今、この瞬間も。嘘じゃなく、愛していると。
彼女がやがて忘れても、――自分は、たぶん、ずっと。
加賀くん、と彼女が呼ぶ。掠れる声で。一日だって忘れたことのない、どうしても失いたくなかった、声で。
貴方が泣くところ、初めて見たわ、
自分だって泣いている癖に、からかうみたいにそんなことを言う。
濡れた頬に触れた。視界が滲んで、零れた。目を閉じて、そのまま頬を重ねて、このまま全部消えてしまえばいいのに、と思った。
――だからもう、二度と会えないと思っていたのだ。けれど彼女は、来てくれた。
見慣れたスーツ姿ではなくて、淡い、優しい、それでも彼女らしい姿で。
辞表、出しちまったんだってな。
ええ。今は、レースをする気になれなくて。
そう言ったあと、少しだけ黙って、……貴方のいないチームでは、と彼女は付け加えた。
そう。もう、彼女の側に自分はいない。……自分の側に彼女はいない。たぶんもう、二度と。
分かっていた。お互いにちゃんと、分かっていた。
だから、引きとめることも引きとめられることも、なかった。
しんと冷えて行くような胸に、手を当てる。どこにも穴なんて空いてない、のに、冷たくて仕方ないのだ。
上昇して行く高度の表示。青く青く視界を埋めて行く窓の外。
地上に置いて来たのは、彼女を愛していた自分だ。胸に空いた隙間に、代わりに得たものは多分、――自分を愛してくれた彼女。
泣き崩れた彼女の柔らかな胸にも、きっと冷たい風が吹いている。自分が攫って来てしまった、遠くなっていく彼女の欠片。
きっと忘れられないだろう、と、思う。置いて来てしまった、自分の半分。
いつか。
また、拾いに行かなくてはならないのかも知れない。それでも、今は。
――あの時のように目を閉じた。彼女の頬の感覚も、優しく名を呼ぶ声も今は無く。
飛行機は、きらきらと地上を、離れてゆく。
[2013年11月]