あ。新しい月になってる。つけすぎた歯磨き粉の泡を持て余しながら、リビング脇のカレンダーを眺めて、思った。
もう11月か。早いな、もう半月でまたテストか。冬休みまではどれくらいだろう。三者懇談がどっかであるんだったな、そういや兄貴は修学旅行か。
見慣れた母親の字で書きこまれた予定の数々をぼんやり眺めて、あーだこーだと思考を彷徨わせる。
あれ、月末に遠征だって、おれ、誰かに言ったっけ、そうだ、承諾書にハンコもらわなきゃ、明日提出し忘れると、また顧問に叱られる。
「…ん?」
視線の端に、ふと何かが引っ掛かる。流麗と言ってもいい文字に交じって、小さな飛行機の絵がひとつ。
「……あー」
シンプルにデフォルメされて、サインペンで描かれたそれは、子どもの頃から繰り返し、カレンダーの上で見たものだ。
絵心なんてそれほどない筈の母親が、これだけは器用に、上手に描く。短い電話の後、手早く、うきうきと、嬉しそうな顔をして。
小さい頃はまだよかった。カレンダーに描かれた飛行機が嬉しかった。だってそれは、彼に会えるってことだから。
年にほんの数回だけ。やたらと大きなお土産に、よく響く笑い声。うちでは普段は感じない、幾らか苦い、煙草のにおい。
――今はもう、どうも素直には、喜べない。
(…今はもう、っつーか、)
思い返せば物心ついたときから結構、頻繁に起こっていたことだ。三つ年上の兄と比べても間違いなく、おれの方が被害にあっている。
やたらうちに遊びに来たがる同級生とか。授業参観の間じゅうそわそわしているクラスメイトとか。まじまじとおれの顔を眺める、友だちの親、とか。
三者懇談の予定をやけに気にする担任に、保護者署名を丸い瞳で見つめる事務職員。試合展開よりも観客席の動きを追い駆けているベンチ入りメンバー。
ったく、どいつもこいつも。足を引っ張られてばかりだった。物心ついたときから、いつも。
この世の不幸の始まりは、親子に生まれついたことだ、っていう言葉があるらしいけど、なるほど真理だと思う。少なくとも、おれにとっては。
多過ぎる泡を洗い流し、溢れたミントの香料でつんつんする口の周りをばしゃばしゃ洗う。
覗き込んだ鏡の中から、見慣れた顔がこちらを見返す。猫のようだと言われる大きな目、奔放に跳ね回る黒い髪。自分でも小生意気だと思う口元。
ああそうだ、この顔だ。全部、この顔が悪いのだ。
物心ついたときからだ、そりゃうんざりもするってもんだ。
せっかく、住所も名字も違うのに、この顔が全部台無しにしてしまう。受け継がれている遺伝子の、出所が一目瞭然だから。
この世の不幸の始まりは、アイツの息子に生まれたことだ。おれ自身はそう思っている。
だからどうこうってんじゃないんだ、自覚はしてる、顔も性格も、ちょっとした癖も、なんだかんだとそっくりだってことはどうしようもなく。
納得もしてる、腹立たしいけど認めないワケには行かないくらい、相手はそりゃあカッコよくて、イイ男で、誰からも強烈な愛を向けられてしまって当然だって。
でも、だけど、やっぱどうしても。
デフォルメされた手描きの飛行機。一目見て浮かれ気分が伝わってくる、陽気で可愛いシンプルな絵文字。
人前でデレデレするタイプじゃない筈の母親が、これだけはあからさまに、嬉しそうな顔をして書く。短い電話の後、さらさらと、待ち切れないって顔をして。
(……フクザツな気分になるのも、無理はねーだろ? なあ?)
数ヶ月ぶりに会う度に、どんどん似てくるのが自分でもはっきり、判るから。
さて、今度の再会は、どんな感慨を運んでくることやら。
誰かさんそっくりの大きな瞳をばちんと閉じて、おれは全力の溜め息を吐いた。