ホットミルク


 ルリを寝かしつけるのは、鏡の仕事のひとつだった。
幼い頃の話ではない。つい最近、そう、アオイが石の呪縛から解き放たれて、再び目覚めるまでずっと続いている役割だ。
 両親を失い姉と引き離され、僅か12歳と8ヶ月の若さで藍羽財団CEOに就任したあの時から、ルリはしばしば夜中に目を覚ますようになった。 その度に寝室まで呼ばれる。
 怖い、などとは言わない。そばにいて、とも言わない。眠れないの。その一言だけだ。 眠れないからどうしろ、とは、そんな時のルリは決して指示してはくれない。 だから鏡が考え考え、再び睡魔が訪れるまでの相手をする。
 初めのうちは失敗もした。電灯を点けたら辛そうな顔をしたので、蝋燭に火を灯してみたら強い口調で、消して、と言われた。 炎の色が怖いのだとそれで気付いた。あの夜のことを、思い出してしまうからルリは寝つけないのだ。 問い質さなくとも確信があった。それは鏡も、同じだから。
 降り積もる雪と燃え盛る炎。手のひらを濡らす義父の血液。失われていくぬくもり。 燃え落ちた梁の崩れる大きな音、鮮やかな炎の橙の中に、冷たく光を弾いていたアオイの、石。 ――同じ記憶を、同じ光景を、夢に見て飛び起きることが彼も、あるからだ。
 それを口に出したことはない。けれど多分、ルリは分かっていたのだと思う。 同じ傷を抱えているからこそ、夜更けに呼び出す相手は鏡でなければならなかったのだ。初めから今まで、ずっと。

 成長するにつれて、頻度は下がっていった。鏡の対応の仕方も変わった。 13歳の少年だった鏡には、ひとつ年下の少女を後ろから抱き締めて暖めてやることも出来たが、 その華奢な身体が柔らかな丸みを帯び始めたのに気付いた頃から、その方法は使えなくなった。
 それからは、体温で暖めてやることが出来ない代わりに、温かい飲み物を用意した。ホットミルクに蜂蜜を足したものがルリには最も効果的なようだった。
 5日に一度。週に一度。月に数回、2ヶ月に3回、半年に4、5回程度。少しずつ、ルリの呼び出しは減った。 丹童子アルマとの接触が成功した頃には目に見えて少なくなった。それでも、完全に無くなった訳ではなかった。
 ――だから、アオイが目覚めた今でも、不意に呼び出される可能性はまだあるだろうと思っていたのだ。
「鏡さん、」
 顔を上げると、困ったような微笑みと目が合った。メイド隊の一員であるユミコが、ホットミルクを小さなお盆の上に載せたまま、 ついさっき出て行ったばかりの扉から戻って来たのだ。
「なんだ。早く持って行って差し上げろ」
「申し訳ありません。私の用意したものは甘すぎて、ルリお嬢様のお口に合わなかったようなのです」
「だったらさっさと作り直して、」
「鏡さんのお作りになったホットミルクが宜しいのですって」
「…………」
 ぐ、と思わず息を呑んだ。おっとりと、ごく自然な困り顔で、ユミコは微笑み続けている。
 ――こんなことがあるかも知れないと思った。だから、前もって手を打っておいたのに。

 ルリの日常に起こった変化はアオイの目覚めだけではない。パートナーが出来たのだ。丹童子アルマという、同い年の長身の青年。
 ふたりが好き合っていることは誰の目から見ても明らかで、実際、躊躇いがちに指を絡め合ったりする程度には親しい「お付き合い」をしているらしいが、 それ以上にはなかなかならない。
 不器用でやや後ろ向きなアルマと、生真面目で思い詰める性質のルリとでは、周囲がじれったくなる速度でしか仲が進展しないのも当然ではある。 それが鏡にはもどかしかった。いっそ丹童子アルマが、ルリを抱き締めて寝かしつけてやれる立場になってしまえばいいのだ。
 そうすればもう、こんな仕事からは解放される。 深夜に、薄い寝間着一枚のルリを目の前に、触れることも見つめることも許されないまま他愛無い話をし続けなくてはならないような、苦い仕事とは。
 とはいえそんな日が来るのは遠いらしかった。けれども、いつまでも鏡がルリの寝室に立ち入り続ける訳にも行かなかった。 丹童子アルマにその役割を期待するのならば、尚更。

 だから、今度夜更けに寝室まで呼ばれたら、代わりにメイドをやることにしようと考えていた。 メイドたちの中でも年長で、穏やかな物腰と口調を持つユミコが、その役には適任であろうと思われた。
 先刻、鏡を呼ぶルリの声を受け取ったとき、鏡は予めそう決めてあった通りにその声をユミコにも伝えた。 そうして何食わぬ顔でユミコがルリの部屋を訪れてくれる筈だった。――なのに。
 穏やかな佇まいのまま待っているユミコの、やや垂れ気味の目元には、はっきりと笑みが浮かんでいる。 故意だ。わざと、鏡に指示されたよりも甘いホットミルクを作り、ルリ本人の口から「鏡の作ったものでないと」という台詞を引き出した。 ……彼女の聡明さを鏡は頼りにしているが、こんな場合には憎らしいと言うしかない。
「鏡さん、ルリお嬢様がお待ちですよ」
 穏やかに背中を押されて、溜め息を吐いた。癪ではあるが、ルリを待たせるわけには行かない。 立ち上がって、立ったままのユミコに近付いた。お盆の上のカップを取って飲み干す。……確かに、甘すぎだ。
「温めたのはこれだけか」
「ミルクパンに、あと2杯分くらいは残っていると思います。保温してありますから、そのままお使い頂けます」
 作り直したルリの分と、その相手をする鏡の分。ここまで計算通りか。苦々しい思いを見透かしたように、ユミコはまた笑う。
「お役に立てなくて申し訳ありません、鏡さん。また、次の作戦を練りましょうね」
 最後だけ、まるで弟をからかう姉のような口調で言って、深々と一礼する。投げやりに手を振ると鏡は、キッチンに向かって歩き出した。

「お嬢様、失礼します」
「入って」
 控えめなノックに、凛とした声が答えた。ルリは、鏡に対するときはいつも、理知的で抑えた物言いをする。 立場を弁えている。弁えねばならない筈の自分よりも遥かに厳しく、それでいて自然に。
「お待たせしてしまって、申し訳ありません」
「言い訳は要らないわ」
 そっとサイドテーブルに置いたカップを両手で包みながら言う。静かなのにぴしゃりと響く声音。
「……どうしてすぐに来なかったの」
「申し訳ありません」
「理由を訊いているのよ」
 灯りを点けない、薄暗がりの寝室。ルリの視線は湯気を立てるカップに注がれたままだ。それを気配で読み取りながら、鏡もまた、絨緞に落としたままの視線を上げようとはしない。
「……差し出がましいことを申し上げますが、」
 小さく、ルリがカップの中身を啜る音がする。控えめな、抑えた挙動。それでも、甘く温かいものを口に入れたことで、緊張が微かにほぐれるのが判る。 そのまま、柔らかく受け入れてくれればいいが。虚しく願いながら言葉を続ける。
「お嬢様も、一人前の女性として振舞われるべきお年頃です。これまでは立場上こうして寝室に伺うこともありましたが、今後は」
「……どうして、突然そんなことを言うの」
 ルリの目がこちらを向いたのがわかる。鏡は視線を上げない。目を合わせても尚揺らがずにいられるほどの自信が、まだ、無い。
「……年頃の女性が寝室に迎え入れる男性は、ひとりだけであるべきでしょう」
「鏡!」
 言い終わる前に叱責が飛ぶ。その声の真剣さに押されて、仕方なく顔を上げた。目が合った。零れ落ちそうに大きな、なのに欠片も夢見がちではない、強い、瞳。
「馬鹿なことを言わないで。私は、あなたをそのような男性だと思ったことなど一度もありません」
「……申し訳ありません」
「アルマさんだって、……そんな風には、思わないはずだわ」
「…………」
 鏡が目を伏せる前に、ルリの方が視線を外した。気まずさというよりは気恥ずかしさだろう。 これほど親しくなってからでさえ、ルリは、彼の名を呼ぶことですら恥じらう。瞳を潤ませ、頬を染めて――息苦しくなるほど、愛らしい態度で。
 ルリの言うことは恐らく正しい。ルリもアルマも、鏡をそんな対象だと考えて警戒したりはしないだろう。 ただ、彼らは見落としているのだ。……鏡自身が、どう思っているかというその一点を。
 それを訴えることは許されない。何よりも自身の誇りがそれを許さない。だから、こんなありきたりな言い訳でも、察して、酌んで欲しいのに。
「鏡、」
 先程よりも少し穏やかな口調で、ルリが呼ぶ。視線を上げることで答える。合わせた視線が、柔らかく絡まる。
「あなたにはいつも、……感謝しているわ。頼りにもしている。こんなことを頼めるのは、鏡だけなのよ」
「……はい、お嬢様」
「私自身、情けないとも思っているの……いつまでも、こんな癖を引きずったりして。やっぱり、アオイの方がずっと大人ね」
 小さな苦笑に、ちくりと胸が痛む。
 仲のいい姉妹だった。しょっちゅう喧嘩もしたが、それはふたりが互いに心を許し合っているゆえの諍いなのだと知っていた。 それでも、お喋りで快活なアオイに対して、引っ込み思案で大人しいルリが微かな劣等感を抱いているのもよく判った。
 いや、劣等感、と言うほどのものではない。ほんの少しの引け目と、憧れと羨望。それらが少しずつ綯交ぜになった、少女らしい感情だ。
 それを抱えたまま、ルリは藍羽財団の代表にならざるを得なかった。 背筋を伸ばし肩肘を張って、必死で突っ張ってみても、私じゃなくてアオイだったら、と唇を噛むことが何度もあったことを知っている。
 目を覚ましたアオイは見事な速度で日常に溶け込んだ。 ルリよりも鏡よりも、もっとずっと凄惨な場面に晒された筈の惨劇の夜の記憶も、数回のカウンセリングを経てかなりの程度までコントロールできるようになっているらしい。 現に今も、うなされることも飛び起きることもなく、穏やかに自室のベッドで眠っている。
 だからこそルリは、今でも夜中に目を覚ましてしまう自分が辛いのだ。――辛いと泣くことさえ出来ずにこうして鏡を呼び出すくらい、辛いのだ。
「お嬢様、……」
 続ける言葉を探している間に、ルリはこくりと音を立ててカップの中身を飲んだ。少し緊張していた眉の間から力が抜けて、柔らかな表情になっていく。
 幼い頃から、感情を内に抱え込む少女だった。 大喧嘩の気配を聞きつけて飛んでいくといつも、わあわあ大きな声をあげて泣き喚いているのがアオイで、唇を噛んでぽとぽと涙を零しているのがルリ。
 ――だからいつも、守ってあげなくてはという気持ちになったのだ。必死で泣き声を呑み込もうとしているルリの、苦しげに歪んだ表情を見る度に、いつも。
 ああ、そうだ。……こんな単純なことだったのだ。
 その気持ちは変わらない。時が流れて、大人になって、――ルリに、家族以外の「大切な人」が出来た今になっても。
「お嬢様、……お嬢様が望むのであれば、今後も私が、お側におります」
「……本当?」
「勿論です」
 言い切ったらやっと、ルリが笑った。薄暗がりの中でさえも、眩しく見えるような眼差しで。
 そうだ、ルリが望むのならば、自分の気持ちなどどうだっていい。ささやかな嫉妬の痛みなど無視してしまって構わない。
 何よりも強く願うのは、彼女が笑っていてくれること――鏡にとっては、ただそれだけなのだから。
「じゃあ鏡、あなたも冷めないうちに、飲んで。……ついでに、乾杯しましょうか?」
「ホットミルクでですか?」
「お酒が飲める年齢ではないでしょう?」
 苦笑してみせながら、手に取ったカップを軽く触れ合わせた。小さな陶器の音が響いた。
「これからも、よろしくね。鏡」
「はい、お嬢様」
 満足そうにルリが微笑む。手の中の温もりを小さな灯のように感じながら、鏡もまた、薄暗がりの中で微笑んだ。

[2011年9月]