きづいてください、きずつけてください
広すぎる駐車場は、人影も無ければ話し声もしない。夜ともなれば尚更で、こうこうと鳴る耳元に風の音だけが行き過ぎる。
扉を開けたその途端、なおぉ、と小さく鳴き声が響いた。立ち止まる。
落とした視線を彷徨わせれば、足元に淡い銀色の毛並み。
「……珍しいな」
呟きの最後に笑いが滲んだ。それを判っているのかいないのか、大きな瞳で数秒こちらの顔を覗き込んでから、彼女は満足げに運転席に飛び乗った。
軽やかな足音を立てて助手席へ、それからその足元へ。くるりと丸まってもぞもぞと身動ぎして、落ち着いたらしいのを確認してから名雲は運転席に滑り込む。
薄暮と呼ぶには遅い時間。ひとりきりの家へ、帰るのだ。珍しい同乗者を伴って。
名雲の同居人は気まぐれだ。日頃はどこにいるかも判らない癖に、時々こうして名雲の車に乗り込みたがる。
決して仲が好い訳ではない。疎まれているという程でもないが、懐いているとはお世辞にも言えず、普段の態度はよくて精々無関心というところ。
一応の飼い主であり、給餌も寝床の用意も手掛けている筈の名雲に愛想を振り撒くようなことは一切なく、
寧ろ名雲が「飼っている」無口で大人しい少年レーサーの方にばかり懐いているらしい。
それが自分と猫という生き物との相性なのか、それとも彼女の個人的な好みによるものなのかは知らない。興味もあまり無い。
それでも、偶にこうして近付いて来れば僅かばかりは絆される。
ジャケットを脱ぎ、ネクタイを解いて、薄暗いまま室内のソファに身を沈めた。
窓から十三夜の月が覗いている。どこか胸の痛くなるような金色。猫の目のようだ、と思う。
「…………」
そうだ、猫だ。よく似ている。
丁度、くぐもった声で食事を要求し始めた、気まぐれで高慢な同居人の瞳に。
棚から缶詰をひとつ取出し、皿の上に開けてやった。なぁお、と一声上げて、少しの間名雲を見上げる。一拍おいて、優雅な仕草で食べ始める。
あざといと言えばあざとい。けれど、媚びている、といった印象とはかけ離れているから、寧ろ、遠く高い玉座の上から「ご苦労」とでも言われたような気分になる。
「…………」
部屋の中は静かだ。はくはくと餌を咀嚼する音だけが続く。小さな頭に手を伸ばし、指の背でゆるゆると撫でてみた。
傲慢で誇り高い彼女は、飼い主のちょっかいになど興味が無い。ほんの少し厭わしそうに首を捻るだけだ。
指に伝わる温もりは小さく、けれどこの上なく滑らかで、自然と瞳を細めさせる。
耳を掠め、眉間をつつき、可愛らしい喉元をしつこいくらいに擽っていると、流石に無礼に耐えかねたのか、ぱしりと小さな手で叩かれた。
「っ、」
反射的に手を引いたが、心配するようなことは何もない。判っている。短く切られた彼女の爪は、名雲の肌を傷付けない。
そもそも、この程度の悪戯で彼女が本気を出す筈がないのだ。優美で高慢で、気まぐれで我侭な同居人。名雲のことなど、眼中に無い。
傷くらい。喜んで、負ってやるのに。
手の甲を顔の前まで引き寄せた。月に照らされて青白く見える肌。擦り傷ひとつない自分の手に、唇で小さく、触れてみた。
今日。あの人に触れた。自分のものとは全然違う、白く柔らかな、小さな手に。
どうということのない言葉の応酬だった。自分の方が、上手だった。
冷徹に見えて存外かっとなりやすい彼女は、言葉のキャパシティからはみ出した分の激情を、平手打ちという形で名雲にぶつけようとしたのだ。
その手を、掴んだ。赤くなった頬は羞恥ではなく、ひたすらな怒りの所為だった。睨みつける目には僅かだが涙が浮いていて、けれど少しも強さを失ってはいなかった。
艶やかな黒。黒曜石のような光。その中に写り込んだ自分の顔が、酷く満足げに見えた。
彼女にはどう見えていただろうか。自分を甚振って楽しむ、性根の悪い男だという風に映ったのだろうか。
それでもいい。軽蔑や嫌悪や、憎しみや蔑み、そんな感情ばかりでもいい。
彼女の目に自分が映るなら、彼女の心に自分が波を立てられるのなら、彼女が自分に、声を、言葉を、意識を、眼差しを、少しでも向けてくれるのなら。
初めて会ったのは18の時、桜吹雪の下だった。古風な青いセーラー服に、白い花びらが映えていたことを覚えている。
憎悪の所為だったかもしれない。嫉妬や、羨望だったのかもしれない。
彼女が「葵の」跡取り娘でなかったら、あんなにも鮮やかな印象を胸に刻み込まれることはなかったのかも、知れない。
それでもあの時から確かに、彼女は掴めない月のような存在になった。
眩しくて美しくて、遠くて冷たくて、地べたに貼り付いているちっぽけな人間なんか、見向きもしない。そんな風に思った。
だから今、言葉を交わせるだけでも奇跡だ。彼女は知らないし、一生、気付きもしないだろう。
高みしか目指さないその目に、勝つことしか考えないその心に、今、自分が入り込んでいるのだ、と考えるだけで震えてしまうこの気持ちに。
彼女に自分が見えるなら、彼女を自分が揺さぶれるのなら。彼女が自分に、視線を、声を、思いを、コトバを、少しでも向けてくれるのなら。
――それが、どんなに自分を傷付けたって構わない。傷なんて。傷くらい。喜んで負ってやる、から。
(だからどうか、こっちを見て)
「……なんて、ね」
呆れ混じりの笑いが零れて、咀嚼音が一瞬止まる。金色の瞳がちらりと名雲を見た。なあぅ。
甘く気だるげな拒絶の一鳴きに、お好きになされば、と吐き捨てた、優雅にして高慢な物言いが重なる。
彼女の視線に刺し通された胸の傷が、ちりり、と疼いた。ソファに戻って身を沈め、甘い痛みに手を当てて、名雲はそのまま目を閉じた。
[2013年11月]