イはいろはのイ


 で、どうして、こんなことになってるんだったっけ。
「うえぇ、マジでか……マジで完全まっさら経験ゼロか……!」
「悪かったわね」
「悪くはねーけど、キケンだろ」
「きけん?」
 がしがし掻き回すアタマの、派手な色合いが目に痛い。今日は三つ編み、してないの? あ、ちがう、ほどいてある。そうだ。さっきそれを、見てた。 ほどくのを。上着を脱いで、放り投げるのを。外向きの顔から、プライヴェートに切り換わるのを。見てた。くらくらする視界で、ぼんやりと。
「つーか、ホント、マジか」
「よく、わからないけど」
 わざとらしいくらい大仰に傾げられた首に、つられてきゅーっと視界が傾く。膝の下、皺が寄るシーツ、ひんやりして、さらさらして、乾いて、冷たい。きもちいい。
 で、どうして、こんなところに座ってるんだったっけ。
「で? ドコまでなら、わかる?」
「……『いろはのいの字も知らないレベル』って、言われたわ」
「誰に」
「マホに」
「誰だよソレ」
「クラスメイト。高校の……2年のときの、」
「ふーん」
 含むとこありげに、落ち着かない視線。どこ見てるの、なんで、おいかけても、何にも見えない。煙草の煙さえ、どこにも。
 たばこ、いつもなら大抵、こんな時なら大体、そこにあるはずの小さな火、ああ、いいんだ、ない方がいいの、だって、ベッドの上なんだし。
「で?」
「で?って?」
「コーコーセーならそれでもよくても、今となっちゃあ問題だよなぁ」
「問題なの?」
「その歳だぜ? きょーこさん」
 怒ればいいのかたじろげばいいのか。自分より半年ばかり若い男の、余裕綽々の態度をどう扱えばいいのか判らない。わからない、頭が、ぐらぐらする。 点いてないのに、煙草のにおい。にがい。口の中が、やたらと渇く。
「当然、ある程度のコトは心得てるもんだと思ってかかってくんだろ、みんな」
「……そう、なの、かしら」
 みんな、っていったい、誰のこと。ひとりふたりしかいないんじゃないの。ほんとは。
 そもそも、“かかってくる”ってどういう、意味なのかもよく、解らない。
「ちったぁ勉強しなくちゃなぁ。せめてイロハの3つくらい」
「……どうして」
 ああ、暑い。何時だったっけ、今、もう深夜のはずなのに、なんでか気温が下がらない。
「ん?」
「どうして、いろは、なのかしら」
「…んー?」
「あいう、じゃ、駄目なの、こういうの?」
「んー、まあ、確かに、フツー『あいう』とは言わねーなぁ」
「…『123』とか、」
「『ABC』なら言うけどな」
 なんで、どうしてそこで笑うの。なにがおかしいの、なにか、おかしいの、判らない。
「なに不思議そーなカオしてんだよ」
「……だって、なんで笑うの」
「そこが分かんねーってのがなぁ」
 大仰な溜め息、オーバーアクションで竦めた肩の、あ、かたち、綺麗だな、男の人の肩だ。知らなかった。こんな風だったっけ。
 あれ、なんで、どうしてこんなこと思ってるの、なんで、そんなとこ見てるの、見えるの?
「大サービスで教えてやるよ、男あしらいのイロハってヤツ、な」
 待ってよなんかおかしくない? 男あしらいのどうのこうの、って、女性が語るもんなんじゃないの、ふつう。
 って、湧いた疑問さえふわふわ流れて、あっと言う間に消えてしまう。
「あ、」
 ちょっと待ってよおかしくない? ここって、キスなんてするタイミングだっけ。
 駄目だ、なんにも、わからない。いろはどころか、スタート地点それさえも。
「今のが一応、ABCの『A』な」
「…こんな、のが、いちばん、初めなの?」
 困る、止まって、おかしいでしょ? こんなの、なんだかまずくない?
 AとかBとかそれともCとか、修学旅行の布団の中、女子中学生たちのおしゃべりの、ぐるぐる、遠い記憶が弾けるみたいで、今更みたいに緊急事態。
「いや? それよりはまず、イロハの『い』」
 偉そうに、先生みたいに、先輩みたいに、ゆっくりはっきり、教え諭すみたいに。
「“そうなってもいい”相手以外と、二人っきりで呑んだりするもんじゃねーぞ、ってとこ、だよな」
「…………」
 AとかBとか、ひょっとしてCとか。いろはうたより生々しく、知識と予感がぴりぴり絡まる。
「あの、」
 手おくれ。絶望的な四文字が、頭の中で鳴り響く。
「あのね、ちょっと、念のため訊いておきたいんだけれど、」
「んー?」
「『い』から始まって、どこまででこれ、終わりなの、」
 AとかBとか、或いはCとか。特別講義の、おしまいはどこ?
「んー、『いろは』じゃ分かんねーけど」
 くらくら歪む視界から、見えてた顔がなくなって、
「俺の認識ではとりあえず、」
 代わりにわたしの、胸元で、ブラウスの肌蹴た胸元、で、
「『ABC』はワンセット、」
 見えなくたってわかる、くらい、にやにやと面白そうな顔をして、
「かな」
 ――吐息のかかる至近距離、彼がそういって、笑った。
 手おくれ。手遅れだ。いまさら、いろはの『い』なんて習ったって。両手で顔を覆って、呻く。
「さいってー…」
 自分の迂闊が恨めしい。自分の無知が情けない。何が危険だ、こういうことだ、いまさら知っても、もう遅い。
「ん、しっかりお勉強して」
 声までこんなに、面白そうに弾ませたりして、ああ、ほんともう、最低。
「次から、ひっかかんないよーにな?」
 ここからは、いろはの『ろ』なのかABCの『B』か。するりと滑った手のひらが、剥き出しの鎖骨を楽しげになぞった。

[2015年6月]