知り過ぎている
おつかれさまでしたー、と不揃いな声が響いて、飲み会はお開きになった。
電車組行くぞー、あー待ってーゆんちゃんがトイレー、南区方面タクシー乗る人いなーい?、ひでくんどーすんの、あーオレ自転車、気を付けてねーありがとーそっちもー。
声が減り、人が減り、残された吐息ばかりがふわふわと白く残って、そして最後は俺の隣、ベージュのコートの裾を揺らして、女王様がひとりで笑っている。
くすくすくすくす、何がおかしいのか知らないが多分、さしたる理由もないんだろう。呑み過ぎれば絡み酒か笑い上戸かのどちらかになる彼女の、今日のモードは陽性だ。
心得たもんで、誰ひとり彼女にこの後どうするのかなんて訊かない。まあ無理もない、俺が参加している以上、彼女のお守りは俺の役目だ。何の正当性もなく。
単に、慣れてしまっただけだ。幸か不幸か、勘繰られるような事件も起きていない。いや、今のところ起きていない、というべきか――いややっぱ起きねーな今後も。
酩酊という程ではないが酔っている。ぐるぐる回る頭の中に、隣からくすくす笑いが響いてくる。
そちらはほろ酔いを通り越して完全に酩酊状態で、うん、知ってる、放っておけば数分経たずに寝落ちするレベルだ。
仕方ないから手を取って、タクシー乗り場へ連れていく。歩く足元がふらふら揺れて、笑い声も一緒に空を舞う。
ねえねえ、かがくん、ゆきのにおいがしない?
夜風にくんくんと鼻を鳴らして、にへらと蕩けるように笑う。女王様が聞いて呆れる。まるで子どもだ、少女どころではなく幼女。
しねーよ、と手短に答えて開いたドアから後部座席に押し込んだ。カシミアのコート越し、触れた手のひらに丸い肩の感触。
えー、きっとふるわよ、と抗議のくせに笑い声を滲ませっぱなしの声を返して、くたりと窓に寄り掛かる。隣に滑り込んで運転手に行先を告げる。
区画の呼び名から番地まできっちり伝えた上で、アオイの社長さんのお屋敷、と付け加えれば、視線がちらりと彼女に向かう。それから納得の頷きと、静かな発進音。
慣れたもんだ。背もたれに体を預けて窓の外を見やれば、ひらひらと白いものが舞い落ちて来るのが見えた。
繁華街から彼女の家まで、タクシーを使えば20分。
独り暮らしではなく実家住まいの、それも葵の御紋の大邸宅にお住いの女王様だから、玄関先まで送り届ければそれでお役御免。
ちょっとあがってかない?なんて色っぽい声で誘われることもなければ、正体を失くした身体を抱えてベッドに横たえなきゃいけないような役得も生じない。
つまりは日常茶飯事で、道の踏み外しようもない。
途切れがちになった笑い声に目をやれば、窓ガラスに頬をぺたりとつけて、彼女は半分目を閉じている。
うとうと、と効果音が付きそうな空気を漂わせて。
長い睫毛。口紅の落ちた唇はアルコールの所為かまだ赤くて、ひどく温かそうに見える。
酔っ払いめ、本当は寒がりのくせに。投げ出されている左手に自分の右手を重ねる。小さくその手が動いて、彼女の目が開いた。
ゆらりと視線が絡む。唇がほぐれて、また、くすくすと意味のない笑い声を噴き零す。女王様はこんな時間でもご機嫌で、じりりと背骨の奥が疼く。
簡単なことだ。自分の部屋に連れて帰ってしまえばいい。でなきゃ、どっか手頃なホテルに連れ込んでしまうだけでもいい。
時刻は深夜だし、男女二人だし、そうなりゃあとは放っておいたってなるようになってしまうはずで、簡単なことなのに、できない。
できない。そんな風になってしまうには、俺は彼女を知り過ぎてる。
……どこに住んでるかなんて知らなかったら、平気な顔して余所へ連れてくのに。
……酔うと眠ってしまうなんて知らなかったら、もう一軒くらい誘うのに。
知らなかったら。彼女の辛い恋や、不器用な愛情深さを知らなかったら。とっくの昔に、もっと簡単に、今まで何度もしてきたみたいに、――――。
知らなかったら。
こんな風に甘い苦しさを知ることも多分、なかったんだろうけど。
ねえかがくん、そと。冷えたガラスに額を付けて、ふわふわ崩れた瞳で笑う。
ほら、やっぱりふったでしょう、と誇らしげに声を零して、彼女はまた目を閉じて、重なった手はそのままで。
だな、と手短に答えて重ねた右手の指を絡めた。今度は瞳も開けないままで、女王様がくすくす笑った。
[2013年1月]