葉桜薫る


「引き受けて下さるとは、思いませんでした」
 緑眩しい初夏の桜並木の下、二歩ほど離れてついて行きながら、フィル・フリッツは呟いた。
 前を行く新条が立ち止まる。振り返った眼差しは穏やかだ。涼しげな切れ長の目の癖に、冷感よりも柔らかさの方を強く感じさせる。 そういう男だった。少なくとも、サーキットの上以外では。
 解っている筈なのに、目が合う度に奇妙な感覚に囚われる。――多分、誰かの眼差しと混同している所為だ。 同じように涼やかな黒い瞳の持ち主の、視線と。
「そんなに畏まらないでくれ。おれは別に、おまえの上司でも何でもないんだし」
「尚更です。僕の為に時間を割く義理なんてないのに」
 フィルと新条の間には、個人的な付き合いはあまりない。 突然の電話と「画商か絵画コレクターの知り合いはいないか」という質問には、幾ら根が呑気な新条といえども面食らったことだろう。
 それでも、あれこれ詮索することも、面倒臭そうな気配を匂わせることも無しに、 新条はフィルを新緑の美術館まで連れて来てくれたのだった。忙しいシーズン中の貴重な休暇だというのに、嫌そうな顔ひとつせずに。
 思った途端、思考を読んだかのように新条が言う。
「おれは別に、無理して付き合ってるわけじゃないぞ」
「でも、迷惑でしょう」
「……そんなに、迷惑がってるように見えるのか」
 困ったように首を傾げる。その仕草が今日子に似ていて、ああ、彼らは親しいんだったな、とふと思う。
「おれは寧ろ、」
 一瞬思考が飛びかけたフィルの目を捉えて、新条は柔らかく続けた。
「嫌われているんじゃないかと思って心配になる」
「……それは、僕のセリフです」
 思わず伏せた目を、上げられなくなった。新条の視線を感じながら、続ける。
「僕があなたを追い出して、AOI―ZIPをぼろぼろにして、今日子さんを困らせたんですから」
 絵本をめくるように現実感の無い記憶が甦る。
 サーキット、アルザード、名雲京志郎、アスラーダ、カメラレンズ、αニューロ、葵今日子、エレノア、無数のフラッシュ、 風見ハヤト、滲んだ視界、新型エクスペリオン、翻る白衣、モーターホームの天井、遠く聞こえる自分の悲鳴。
「なんだ、」
 ふっと零された声には笑いが混じっていた。だから思わず顔を上げた。新条は相変わらず、穏やかな目をしている。
「まだ気にしてたのか、そんなこと」
「……そんなこと、っていう程度だとは、とても」
「加賀と一緒にいるくらいだから、もっと図々しい奴なのかと思ってた」
 くすくすと笑い混じりで言う声音には、本気の色しかない。
「…………」
「気にするなよ、フリッツ。おれは恨んでも、根に持ってもいないし――」
 手を振りかけて、ふと真剣な顔をした。
「――いや、寧ろ、感謝してる」
「え?」
「なんていうか、――おまえが、運んできてくれたと思うから」
 立ち止まったまま、少し背の高い相手の顔を見上げた。
「きっかけとか、ヒントとか。そんなようなものをさ」
 真剣な目のまま、新条は言った。黒々とした睫毛に縁取られた瞳が、ふわりと柔らかに揺れた。


 桜並木を抜けたところにある美術館は、それ自体が美術品のようだった。窓口に歩み寄るより早く、慌てて駆け寄ってきた中年の男性に丁重に迎えられた。
 道々聞いてきたところでは、「新条の祖母の昔の弟子を妻に迎えた実業家の口利きによる特別待遇」という遠回りなもてなしらしいが、 そうでなくてもトップクラスのCFドライバーでは、特別扱いしたくもなるだろう。
「個人からの寄託作品なので、滅多に一般公開はしないんですけどね、」
 弁解するように、或いはもったいぶるように言いながら、支配人だという中年の男性はふたりを小さな展示室に招き入れた。
「お手を触れないようにだけ願います。――ごゆっくりどうぞ」
 彼が出て行くよりも早く、感嘆の溜め息が漏れた。
 これだ。ずっと、これを間近で見てみたかったのだ。画面でも印刷物でもなく、直にこの目で。
「ああ……この絵だったのか、おまえが見たがってたのって」
 新条の声に、頷く。
「空と月と、――満開の夜桜。印刷じゃ、うまく出ないんです、この花びらの微妙な色合い」
 薄紅色、と一言で済ませてしまう気にはなれない、複雑で繊細な色だった。透き通るような。溶けてしまいそうな。月明かりに照らされた、妖艶な桜の色。
「おれでも名前だけは知ってるような画家だけど、……こんな絵があるなんて、知らなかった」
「彼の場合、有名な作品はほとんど人物画ですから」
「そう言えば、そうだな。女性を描いてるイメージがある」
「今日子さんが好きなんです、この人の絵。めったに描かないけど、花の絵もすごくキレイなんだって、いつだか言ってて。 いつか見たいと思って、あちこち探して――」
「それで、おれに?」
「ええ。……見に来られて、よかった」
 もう一度、視線を花びらの上に戻す。
「もちろん、真似しようったって簡単にできるようなもんじゃないですけど、……でも、一度、見てみたかった。 印刷物じゃなくて、本物を」
「すごいな。おれには、専門的なことはよく解らないけど、……綺麗だ」
「きれいですよね」
 沈黙が落ちる。隣で見上げる新条は、フィルに何も訊かない。何も言わない。ただ黙って、一緒に絵を見上げている。
 ふいに、聴いて欲しい、と思った。躊躇いが生まれるよりも早く、ゆっくり口を開いていた。
「今日子さんに、絵を贈りたいんです。満開の桜の花の、絵を」
「……桜を?」
「はい。無くなってしまった桜の木の、代わりに」


「桜の木には、精霊が宿っていて」
 午後の陽射しが眩しい並木道を帰りながら、フィルはふと呟いた。新条が顔を上げる気配。
「悪いものから、守ってくれるんだそうです。……どこで読んだのかな、忘れちゃったけど」
「日本じゃ、桜の木の下には死体が埋まっているとか言うけどな。えーと、何かの小説だっけ、」
「梶井基次郎です、たしか」
 凄惨な台詞もこの陽射しの下では現実味がない。春には視界すべてを薄紅で埋め尽くすであろう桜並木。
 フィルは目を細めた。いっぱいに花を咲かせた、幻想の桜が見える。ここではない、遠いどこか。降り注ぐ花びら。寂しそうに笑う、その人の横顔。
「……僕にとっても、今期は一区切りになりそうなんで。今までのお礼を兼ねて、大きめのものをひとつ描いて、贈ろうと思ったんです」
「それで、桜か」
「庭に、大きな木があったでしょう。桜の」
 今日子の家、つまり葵自動車工業社長宅の庭のことだ。 フィルが初めてその木を目にしたのは、名雲に伴われて開幕前の挨拶に訪れたときになる。 平年よりも開花が早かったらしいその年は確か、開幕の一週間前の時点でもう、三分咲きになるかならないかというくらいだった。 陽射しに透けた花びらの、淡い色合いを覚えている。 花になど何の興味も無さそうな名雲が、思いがけないほど優しい目でその木を眺めていたことも。
 おかしなものだ。そのときには全く気にも留めていなかったのに、今になってその意味が解るなんて。
「あったな、大きな桜が。……でもあれは、確か、」
「ええ。切られてしまいましたよね」
 いつ、とか、なぜ、といった部分には触れない。曖昧に濁して言葉を切ると、新条も察するところがあったのだろう、 そこで桜についての話は終わった。
「で、一区切りってのは具体的に、どういうことなんだ?」
「ええと……話すと、ちょっと長くなるんですけど」
 スポンサーとデザイナーがロゴの配置について揉めているところに偶然通りかかって、意見を求められたのがそもそもの発端だった。 彼らは無論、フィルを若手のメカニカルスタッフだと思っている。素人の見解が聞きたかったのだ。
 ところが、そこでフィルが述べた意見があまりに的確でしかも斬新だったものだから、 面白がった彼らに「メンバー」に引き入れられることになってしまった。 保護者代わりであるグレイと、チームトップである加賀は、フィルの配置換えをあっさり承認した。
 そんな経緯で、いつの間にかフィル・フリッツは、マシンデザイナーの卵というよりグラフィックデザイナーの卵のようになった。 ――いや、寧ろ、「兼ねるようになった」と言うべきかも知れない。 仕組みと形を重ね合わせる。動きと色とを結び合わせる。そんな風にして手がけた作品の評判はよかった。 マシンの塗装やスポンサーロゴの配置だけでなく、加賀のメットのデザインも、そのうち、 ノベルティグッズの用意にも携わるようになっていって、そしてとうとう、「外部」からお呼びが掛かったのである。
「移籍?」
 聞き返した新条の目が驚きで丸くなっている。葉桜を透かして届く木漏れ日と同じように、丸く。
「はい。ちょっと気が早いみたいですけど、……つい最近、決まったんです」
「そうか、……道理で」
 何か言いかけて、それから慌てたように目の前で手を振る。
「あ、大丈夫だからな、どこにも漏らしたりしないし、おまえが厭ならみきにだって」
「平気ですよ、」
 新条の慌てっぷりにくすりと笑う。まったく、これでトップレベルのレーサーだというのだから!
「ドライバーが移籍するっていうんじゃ騒ぎでしょうけど、僕程度じゃ誰も気に留めたりしませんから」
「……そうか?」
 まだちょっと気遣わしげに眉を下げてから、新条はふと呟いた。
「じゃあ、来期は上海がおまえの本拠地になるわけか」
「ええ」
「……それは結構、大変だな」
「今日子さんにも言われました」
「今日子さんには、もう?」
「移籍の話が出たときに、ちょっと」
「そうか。で、何だって?」
「日常会話の通じない、気候も文化も全く違うところで、しかも新しい仕事に就くのは大変よ、って。 覚悟を固めてから返事なさい、って言われました」
「他には?」
「次に話したのは、グレイで……若いうちにゃ、無理にでも苦労はしておくもんだ、って」
「グレイらしいな。それで?」
「あと、加賀に」
「なんだって?」
 フィルはそこで新条を見て、笑った。
「どーせもう決めちまってんだろ、って」
「……ああ、それもまた、らしい答えだな」
 新条も笑った。共犯者の、或いは被害者仲間の笑み。
「じゃあ、来期に向けてぼちぼち準備して行かなくちゃな。なんだかんだと面倒だろ」
「それなりに。中国語が難しくて、今はそれで頭がいっぱいですよ。……周りは、知らない人ばっかりになりますしね」
「大丈夫なんじゃないかな。……グレイとも加賀とも、今日子さんとも、うまくやってきただろ? フリッツは」
 それに、と少しだけ気を遣った口調で、新条は続けた。
「あの名雲の下でも、潰れなかったぐらいなんだからさ。――自信持てよ」
「…………」
 顔を上げる。目が合う。時として無神経なくらいに混じりけのない瞳。 あの人とどこか似た、けれどちっとも似ていない、睫毛の長い、切れ長の目。
「――僕は、」
 ああ、そうだ。だから、話せるような気がしたのだ。きっと。
 この人になら解ってもらえるような、そんな気が。
「あの人は、冷たいとか厳しいとかそういうこと以上に、――寂しい人だったんじゃないかと思うんです。 ……あの頃は解らなかったけど、今になってすごく、そんな気がする」
「…………」
 新条の瞳が揺れた。光は優しかった。あの人と同じ、切れ長の黒い瞳なのに、冷たさも酷薄さも感じさせない。 視線を合わせたまま、続けた。
「判決が出るまでの間、僕は今日子さんのうちにお世話になってましたから、結構いろんなことを知る機会がありました。 動機を話したがらないこと、共犯者はいないと言い張ったこと、減刑嘆願を迷惑だと言ったこと…… 今日子さんが、庭の桜の木を切らせてしまったことも、加賀が止めるのに逢いに行って、……泣きながら帰ってきたことも」
 新条が目を細める。過ぎた痛みを思い出しているような、遠い目。
「今日子さんは、あんまり隠し事がうまくないから、――近くにいればいろいろ、見えてくることもあって」
 強そうに見えてそうでもない。冷徹な合理主義者の顔をして、本当のところは情の深い、感受性の強い女性なのだ。
 身近であれこれと世話を焼かれるようになって初めて、フィルはそれに気付いた。そして悟った。 なぜ名雲が、アオイという会社に拘ったのか――なぜ今日子が、名雲という存在に苦しんだのか。
「エレノアとか、アルザードとか、……凰呀とか、加賀とか。あの桜の木とか。 そんなものを通じて、僕にも少し、解ったような気がします。名雲京志郎という人が、今日子さんにとってどんな存在だったのかが」
 初めは多分、敵でしかなかった。同じアオイという組織にいながら、今日子にとって名雲は全く理解出来ない相手だったろう。 だからこそ今日子は名雲と対立し、フィルを庇ってくれもした。
 それが少しずつ変わっていく様を、フィルは間近に見ていた。一部始終を見てきた。 悩む今日子と不機嫌な加賀と、そこにはいない名雲との、微妙で複雑な繋がり。
 それがやがて捻じれて絡んでぷつりと切れて、やっとほどけてまた繋がって、 ――加賀がちょくちょく日本へ遊びに行ったり、今日子が何気なくアメリカへ訪ねてきたりする、今の状態に落ち着くまで、ずっと。
 今はもう、今日子が涙を堪えて俯いたり、加賀がそれを見て暗い顔をするようなことはない。 電話を取り次ぐなと言われて戸惑うこともないし、様子を尋ねて余計なお世話だと怒鳴られるようなこともない。 むしろ幾らか妬けてしまえるくらい、彼らの関係は順調らしく見える。
 それでも、消えてなくなってしまった訳ではない記憶。時折、目の底に沈む青い影。取り除かれないままの桜の切り株。 何度も廻ってくる春。
 抜けない棘。消えない傷。今でも今日子を縛る、今でも今日子を包む、そこにはいない誰かの、微かに苦い気配。
「…………どうしてるんだろうな、今」
「誰も知らないみたいですね。あの人は今日子さんよりずっと、隠し事が上手だから」
 冗談めかして言うと、新条が小さく笑った。
「初めて声を掛けられたときからずっと――掴みどころのない人だと思ってました。いつも、あの人のことが怖かった。 でも今は、……今日子さんにとってと同じように、僕にとってもあの人は、昔とは違う存在です」
「……それは?」
 穏やかに促されて、フィルは笑った。笑えている自分にほっとした。かつては認めたくもなかった、あの頃の自分。
「――僕は、」
 零れ出た声は静かに響いた。人影のない桜並木。木漏れ日。明るい青に満ち溢れた空。
「負け犬でした。たまたまあの人に拾われただけの」
 字面だけ聞けば卑屈な台詞だ。けれど、新条は目を逸らさなかった。フィルも逸らさなかった。重なった視線が穏やかに弾けて、揺れた。
「あの人はいい上司でも、いい雇い主でもなかった。 優しくもないし、要求ばかりきつくて、負け犬どころかたぶん、僕を消耗品だとしか思ってなかった」
「……チームメイトだったのにほとんど、おまえと口を利く機会なんか無かったって、加賀が言ってた」
「半分、軟禁されてるようなものだったから」
 笑ったつもりだったが、曖昧な微笑になってしまったかも知れない。新条の目に、微かな労わりの色が浮かんだのが判った。
「それでも、僕はあの人を、憎む気にはなれないんです。こうやって時間が経てば経つほど、ますます」
「……そうか」
「さっき、言ってたでしょう。『運んできてくれたと思うから』って」
 一瞬だけ、記憶を辿るような顔をして、それから新条はああ、と呟いた。
「同じなんです。僕も。彼は確かに酷い人だったし、許されないことをした。 でも、もし彼の手を取らなかったら、こうしてあなたに会うこともなかった」
「…………」
「あなただけじゃない。今日子さんと話すことも、加賀と親しくなることもなかったろうし、 ――CFマシンに触れることも、憧れることもきっと、なかった」
 アルザードNP―1。フィルにとって初めての、そして唯一のパートナー。 名雲と同じように冷酷で容赦のないマシンではあったけれど、なんて美しいんだろう、と思ったのだ。初めて触れたとき、確かに。
「どうしても欲しいものがあって、……その為に破滅を賭けて戦って、それでもきっとあの人は、 手に入らないって解っていたんじゃないかと思うんです。 けれどそれを望んだことは、すべてを賭けて願ったことは、決して無駄じゃなかったんだと思う」
 冷酷だというよりは醒めていた。無謀で大胆な賭けを仕掛けている癖に、ちっとも熱くなっていなかった。 ――誰よりも勝利を望んでいる筈なのに、初めからとっくに諦めていたようにも見えた。
 矛盾だらけで不安定で、アンバランスで純粋な、――名雲という男の、望んだもの。 周囲を巻き込んで、誰かを傷付けて、それでもそれは、「無意味なこと」ではなかったのだ。
 名雲自身にとってだけではなく、フィルにとっても。今日子にとっても。新条にも、みきにも、……加賀にとっても、たぶん。
「……彼のやったことが派手すぎたから、僕は被害者として扱われることの方が多いけど。 僕自身が選んだ罪があることは、自分ではちゃんと解ってる」
 目線を落として、手のひらを見つめる。いつも臆病だった自分が、それでも確かに何かを得ようとして開いた、両手。
「その罪悪感を抱えているからこそ、今こうして、先に進んでいけるんだってことも ――そのきっかけを運んできてくれたのは、やっぱり、あの人なんだってことも」
 無理矢理伸ばしても結局、掴もうとした夢を取り落としてしまった、頼りない手。
 それでも。
「だから僕はずっと、忘れない。どんなに苦くったって、あの頃の記憶はきっと……僕を守ってくれるものに、なる」
 そしてたぶん、今日子にとっても。彼女を遠くから守る、今はもうないあの桜の木のように。
 ――あの木の下で一体何があったのか、正確にはフィルは知らない。 けれど、今日子にとって特別な桜なのだということだけは知っていた。そして恐らく、名雲にとっても。
 だからフィルは、あの桜を描こうと思ったのだ。今日子のために。名雲のために。 そして何より、自分のために――自分自身の、この手で。
 見つめていた自分の手に、すいと別の手のひらが重なった。驚く間もなく、穏やかな声が言った。
「手のかたちが、変わったな。ドライバーの手じゃなくて、みきと同じ、作業をする手だ」
「…………あの、」
 驚いて顔を上げると、目が合った。微かに笑った、眩しそうな瞳。
「『あんなマシンではあったけど、僕はアルザードに魅せられてた。キレイなマシンだったと思うよ、今でも』」
「……それも加賀から?」
「こっちは風見から」
 小さく笑う。
「欲しいものを、見つけたんだろ。いつか自分の手で作る、誰よりも速くて綺麗なマシン」
「……はい」
「だから今、がんばってる」
「ええ。そうです。……本当に、そうです」
 そう、だから。
 彼という姿で現れた運命を、今は誇りに思おう。
 過ちは正せる。挫折は乗り越えられる。存在には意義が、出会いには意味が、必ずある。きっと。
 ――そう信じられる今を、精一杯誇ろう。
「がんばれよ。きっと、うまくいく。……おれも、負けないように、がんばるから」
「はい、」
 触れていた手を握手の形に変えて、新条は笑った。涼しく光る切れ長の目。あの人に少し似た、けれどちっとも似ていない瞳。
 倒れて挫けて傷付いたって、それでもまた、立ち上がれる。何度だってやり直せる。走り出せる。それをきちんと、知っている瞳。
「上海に移ったら、今より寧ろ日本には近くなるんだな」
「そうですね。今日子さんからも、ちょくちょく来ればいいって言ってもらってます」
「開幕戦の後に来れば、ちょうど桜の季節じゃないか? この並木道も、綺麗だろうな」
 若葉を透かして、空を見上げる。眩しそうな顔につられて視線を上げると、空の青さが柔らかく目を射た。
「――いつかまた、」
 呟きが零れた。桜が咲き零れるみたいにして。新条が、静かに振り向く。
「いつかまた、……彼に出逢うことがあればいいと、思います。きっともう、あんな風に寂しそうな顔は、していないはずだと思うから」
「そうだな、」
 短く言葉を切って、そして新条は続けた。
「おまえも、笑ってやればいい。そしたら多分、……向こうも、笑えるだろうから」
「はい、」
 そして言葉通りに、フィルは笑った。
 傷は癒せる。消えなくても、塞がる。出逢いには意味が、想いには価値が、必ずある。絶対。
 いつかまた、出逢うときには――彼に逢ったんですよ、と、笑って話せるそのときには。
 今日子も、笑って聴いてくれるだろう。桜の気配に呼び起こされる、薄青い記憶に包まれても、きっと。
 空の青は優しかった。今日子に贈るのは、夜桜ではなくて青空の下の桜がいい、と、その空を見ながらフィルは思った。

[2011年5月初出(紙媒体)/2014年5月再掲(WEB公開)]