その青い眼の
「一杯、奢るぜ」
にやりと笑われて面喰った。この男の口から、「奢る」なんて言葉が出ることがあろうとは。
「なんだよそのカオ」
「いや、なんだよって……」
解らないはずもないだろうに。怪訝な顔を崩さぬままそう言ってみると、きしし、と小悪魔じみた笑い声を零して、加賀はひらひらと手を振った。
「こー見えても義理堅いんだぜ、俺は! 返礼、お返し、お互いさま!」
「……なにが?」
「2戦目のあと。祝ってもらっただろ」
「…あー、」
思い出した。にやにやしている加賀の隣、華奢な椅子に腰を下ろす。正面を避けたのは、誰かを待っているらしい気配があるのに気付いているからだ。
待ち合わせの相手が現れるまでの、ちょうど手頃な暇潰し。付き合ってやるのも悪くはない――それこそ、お互いさまというところで。
「何時?」
空いたままの椅子に目をやって尋ねると、8時半、と答えが返って来た。手元の時計は既に20時41分を表示している。
夕飯時が終わり、食堂の人影もまばらだ。さっさと寝たい人間は部屋に戻り、もう少し飲みたい人間はバーへ移動を始めている。そういう時間なのだ。
「すっぽかされたってコト?」
「や、遅刻はいつものことだから。どーせまたミーティングが長引いてるに決まってるしな」
「そ」
それで、待ち合わせの相手の見当もついた。邪魔者にならないようにさっさと飲んで退散しないと、馬に蹴られて怪我しかねない。
口元を緩めてメニューを手にすると、何にやついてんだよ、と取り上げられた。
「ちょ、まだ決めてないのに」
「俺が選んでやるよ。似合う奴を」
「えー?」
「なんだよ」
「加賀に選んでもらっても、嬉しくナイ……」
「なーんて言われると余計そうしてやりたくなるんだよなー不思議とー」
色っぽいくらい挑発的な笑い方で、加賀がにやりと囁く。幸か不幸かそっちの趣味は持っていないから、どきりともぞくぞくともしなかったが。
「よし、じゃーコレで」
「ドレ?」
「あ、おねーさーん、注文いいー? コレとー、あとコレね! ヨロシク!」
加賀の指差した手元は、横からは見えない。結局何を頼んだのか判らないまま、グーデリアンは取り敢えず置きっぱなしのグラスの水を飲んだ。
雨が降り出したのに、室内は少しばかり暑い。先日までの春が、急に初夏になってしまったような好天気の名残り。それでも、予報によれば明日は冷たい一日になるという。
合同テスト初日の結果はそこそこだったし、真新しいこのサーキットは好きだが、気温の乱高下には辟易する。
「明日は?」
「俺は出ない。そっちは?」
「ふたりとも出る。オレは午後だけどね」
「キツそうだな」
「まーね」
体調ではない。一応、ライバルチームに所属している同士だから、細かいことには踏み込まないし、踏み込めないが、お互いにマシンの仕上がりは気になるところだ。
「ホッとしたよ、今日、まともに走れてさ。これ以上モメると、体重落ちちゃいそー」
「多少落ちた方がいいんじゃねーの、お前は」
「ちょ、自分が軽いと思ってそーいうコト言わないでよ」
適当な軽口にひとしきり笑って、それから何となく、口を噤む。凪いだ空気を柔らかく揺らして、お待たせしました、と声が響いた。
テーブルの上に置かれたのは、青く透き通るふたつのグラス。
「ブルー・ハワイ? ハワイどころか、英語圏でもないのに、」
妙にわざとらしく聞こえる呆れ声をあげて伸ばした手を、加賀の一言が遮った。
「違う。それは俺の。お前のはこっちだぜ、ジャッキー」
差し出されたグラスの中の、深い、妖しいくらい美しい青。
「……マレーネ・ディートリッヒ」
知っている。ブルー・キュラソーの明るい青に、ほんの僅かにカンパリの赤を混ぜると生まれる、少し翳のある深い青。
加賀が笑う。ブルー・ハワイのまっさらな青が妙に浮いて見える。
「こんなのが、似合う?」
「似合うさ。『世界の恋人』なんだから、大女優だって余裕だろ」
「どうかなー。ハリウッド女優とはいっても、何しろ生まれが生まれだしな」
「ドイツ女は苦手だって?」
「男も苦手」
くっくっと肩を震わせて笑われた。苦笑で応えると、ま、とりあえず、とグラスを掲げてみせる。
「よき誕生日に」
「頼もしい友人に」
かちりと合わせたグラスの中で、艶やかな青色が揺れる。明るい南国の青と、妖しげな深い青と。
「どーみたってそっちがオレのだと思うんだけどなァ」
「手ごわい女は、現実だけで十分なんで」
くいと飲み下して、涼しい顔。よく言うよ、と呆れながら、グーデリアンも自分のグラスに口を付けた。
甘く香るスミレの匂いに紛れて、すいと喉を焼くウォッカの味。なるほど、確かにこれは、てごわい。
「一杯だけだからな、奢るの」
「分かってるよー。調子に乗って飲むと危なそーだし、コレ」
「おおっ、ついに自制ってもんを覚えたか!」
「うわ失礼ネーこの人!」
ばかげた内容、適当な軽口。それが心地よいときも確かにある。それでも。
「…てごわくっても、苦手でも」
「んー?」
「頼れる監督だからさー、アイツは」
「うん」
「ガッカリさせたくないんだよな。やっぱ」
「殊勝なことで。柄にもなく」
「後半のヒトコト余計!」
言いながら、明日の予定に思いを廻らす。忙しい一日になるのは間違いない。開発状況にもドライバーの状態にも、決して余裕があるわけではない。
テストの一日一日がどうしようもなく貴重だ。どのチームにとっても。
「実際、しんどくなりそうなんだよネ、明日も」
「天気がなー。中断にならなきゃいいけど」
「予定通りに進まないと、すーぐキゲン悪くなるからさァ、うちの監督……」
「ご愁傷さまです」
「そもそも雨ってだけで気が滅入るし。なんとなく」
「鏡でも見とけば?」
「へ?」
「お前の目ん中は、いっつも上天気だろ。雨が降ろうが槍が降ろうが」
「……まーね」
マリンブルーではなくスカイブルー。そう言われることの方が多い。自分でも、明るすぎるくらいに明るいと思う色の瞳だ。
だから、グーデリアンに「青」のイメージを抱く人間は多い。選んだカクテルからすれば加賀とて同じなのだろうに、それでも敢えてマレーネを選んでくる辺り、
気が利いているのか捻くれているのか。まあ、どっちもだな。そう結論付けて頷く。
「まーたニヤついてる」
「んー?」
「そんなに余裕かぁ?」
そんなことは、ない。厳しいのはどこのチームも同じだ。けれども、にやりと笑ってみせた。
「うん。勝つぜ、今年は」
「…そう簡単に勝たせるかっつの」
「それをやっちゃえるのが、うちのチームなんだな」
「まんま返すぜ、そのセリフ」
挑発的な笑みに、同じ顔で返す。同類項。そう、お互いさまだ。
軽薄に見えて妙に義理堅いところも。レースを愛してやまないところも。
てごわかったりめんどくさかったりする誰かさんが、大事で仕方なかったりするところも、たぶん。
「サンキューな、加賀。旨い酒だったよ」
「どういたしまして」
ひらひらと振った手をぺしんと叩いて立ち上がる。待ち人の姿はまだないが、加賀には焦る様子もない。
時計の表示は20時49分になった。誕生日の終わりまで、あと3時間11分。外は容赦ない土砂降りだ。
相変わらず忙しい、てごわくて冷たいドイツ男に、祝ってもらうチャンスはあるだろうか。
「So dark up above, The sun's in my heart...♪」
青く染まったアルコールが全身を廻るのを感じながら、グーデリアンは鼻歌まじりに店を出た。
[2012年5月]