次の季節


「……なんなんだろうなぁ」
 空になってしまったグラスの氷をストローでかき回しながら、風見ハヤトは本日何度目かの呟きを口にした。
 約束の時間を過ぎること13分。待ち合わせの相手はまだ来ない。いつも忙しく飛び回っている人だから、それ自体は別に不思議でも何でもない。 不思議なのは寧ろ、彼女がなぜ自分などを待ち合わせの相手に指名したのかということだ。
 息抜きがしたいなら自分を指名するわけがない。他愛無いお喋りだとすると、あすかなりみきなりを呼び出して、女性同士でする方が自然だ。 レースに関する話だとすれば、別チームである彼女が持ちかけてくるはずもないし、そもそも、一介のドライバーにそんな大きな話を振ってくるとも思えない。 となると、一体何の用事だか、皆目見当がつかないハヤトである。
 ガラス越しの陽射しが眩しい。融けた氷をつつき回し、二杯目を頼むかどうしようかと眉を寄せたところでちょうど、忙しない足音が近付いて来た。
「ああ、風見くん、ごめんなさい遅くなって!」
「今日子さん」
 軽く息を切らした今日子がすとんと目の前の椅子に座る。たっぷりと降り注ぐ陽射しの所為で、薄手のコートが少し暑そうに見える。
 テラスに設えられた軽食コーナーは、ごたごたと混み合っている分却って手頃な会談場所だ。 日常的に注目の的であるハヤトと、何もしなくても目立つ性質の今日子が一緒に居ても、周囲の誰も注意を払わない。
「大丈夫ですよ、ちょっと待っただけですから。忙しかったんですか?」
「ジャクスンモバイルズの会長に出くわしちゃったのよ……話が長いのよね、あの人。なかなか切り上げられなくって、」
 口早に話しながらざっとメニューに目を通し、片手だけで店員を呼び、ずっと前から決まっていたかのようにクラブハウスサンドイッチと、シロップ無しのアイスティーを頼む。 風見くんは?と問われてハヤトは手を振った。夕方からは立食パーティー形式のファンイベントがある。時間的なことを考えれば、なるべく空腹に近い状態でいた方がいい。
「時間は大丈夫?」
「あと20分くらいは平気です。今日はそんなに予定詰まってないんで」
「そう、」
 ありがとう、と言って、目に見えてほっとした表情になる。自分が忙しい分、他人に時間を割かせることに罪悪感を感じるのだろう。 この人らしいなと思いながら、また初めの疑問が頭をもたげてくる。 それほど忙しい人が、一体、何の用で?
「で、」
 間を置かず運んでこられたアイスティーに今日子が口をつけるのを見ながら、ハヤトは切り出した。
「なんですか今日子さん、『気になること』って?」
 ちょっと気になることがあって、それで、少し話を聞きたいんだけれど。
 そう言われて、ハヤトは今日ここに赴いたのだ。今日子の言う、「気になること」の内容が何なのか、全く見当がつかないまま。
「あ、……その、」
「なんですか?」
 躊躇いがちに言葉を切る今日子に畳み掛ける。いつも歯切れのいいこの人が、こんな風になるなんて珍しい。 よっぽど言いにくいことなんだろうか、だとしたら尚更、こっちからどんどん水を向けてやらなくちゃ。
「大丈夫ですよ、なに聞かされたって、他人に話したりはしませんから」
「違うの、別に、そんな人目を憚るような話じゃないのよ! ……ただ、その、」
 慌てて手を振ってみせて、それからやっぱり少し躊躇いがちに声を潜める。
「……私自身の話じゃないから、ちょっと言いにくいんだけど……あの、あのね、」
「なんです?」
「加賀くんて、……友達、いないのかしら?」
「……は?」
 思わず口が開いた。なんだそれ。幼稚園児の保護者じゃあるまいし、友達がどうのこうのなんて、気にするところじゃなかろうに。
 というか、あの加賀に友達がいないわけがない。天性の人懐こさの賜物か、わけのわからない人脈まで異様に豊富な男である。それを、なんで、今更。
「あのね、開幕戦まで、あと少しでしょ。昨年のスケジュールを整理し直してたの」
「はぁ」
「それで、手帳に書いた中身を確認してて気付いたんだけど、私、月に4、5回くらい加賀くんと飲んでるみたいなのよ。 単純に考えて週に1度以上ってことでしょう、ちょっと多すぎる気がして」
「まぁ……」
「だって、おかしいじゃない?」
「えっと、確かに多いなーとは思いますけど」
「おかしいわよ! 新条くんとか片桐くんとか、いえ、それこそ貴方とか、他に誘えばいい相手はたくさんいるじゃない、なのにこんなのって絶対、変だわ!」
 どん!と拳でテーブルを叩いて、ふるふると頭を振る今日子。気圧されて思わず椅子を引く。
「や、そんなに力いっぱい否定しなくても……」
「だからもしかして、周りのみんなと、本当はあんまり親しくないのかしらって。 ……もっと言うと、孤立してたり疎遠だったりぎくしゃくしてたりするのかしらって、心配になってきちゃって!」
「……あー、確かに、オーナーとしてはチーム内の人間関係は気にかかるところでしょうね」
 まくしたてる今日子に圧倒されながらどうにか相槌を打つ。うん、さっぱり聞いてやしないけど。
「そんな不安定な状態でレースなんてしてほしくないし、第一、危ないじゃない?  集中力を欠くってことが、どれだけの事故に繋がるか!」
「はぁ、まぁ、それはごもっともですが」
「でもこんなこと、本人に訊く訳には行かないし、……でも、すぐに開幕戦になっちゃうし、それで、まずは他の人に様子を訊いてからと思って、 ねえ、どうなのかしら、風見くんから見たところでは、どんななの?」
「いや、その……」
 呆れた。答えは明白だ。加賀が今日子とばかり飲んでいるのは、今日子の近くにいたいからであって、他に居場所がないからではない。 他の、居心地のいい相手の誘いを蹴ってでも、少しでも長く一緒の時間を過ごしたいという、切実な願望ゆえに決まっている。
 ……「お子様ねぇ!」とか、「鈍いんだから!」とかしょっちゅうからかわれるハヤトでさえも分かるくらいのことなのに、……本当に分かってないんだろうか、この人は。
 正面から見つめてみる。真剣で揺るぎのない瞳にぶつかる。うん、ダメだ、マジ本気100%だよこの人。なんて可哀想なんだろう加賀さん。あ、いけない、思わず涙が。
「えっ……ちょ、どうしたの風見くん! そんなに深刻な状況なの!?」
「……いや、あの、深刻っていうかなんて言うか……」
 あと20分程度の間、どうやって上手くはぐらかすか――それとも加賀のためだと思って、すべて白状してしまうか。
 悩ましい命題に頭を抱えたハヤトの上で、春の太陽がますます眩しく輝いた。

[2012年3月]