旅立つ


 今年もまた、別れの季節がやってくる。息子の卒業式に参列するための礼服を取り出しながら、3年前の春のことを思い出していた。
 高校を卒業して間もなく、娘が遠くへ嫁いで行くことを決めた、あのときのことを。

「……ママ、」
 呟いた声は震えていたけれど、ひとかけらも迷ってはいなかった。 名残を惜しみたい相手は数え切れないほどいただろう。弟にも祖父にも、きちんと挨拶をして行きたかったに違いない。
 けれど、覗き込んだ井戸の底の青空は酷く遠かった。いつまた消えてしまうかも、分からぬげに。
 だから娘は、――かごめは迷わなかった。底へ落としていた視線を上げて、真顔のまま言った。
「私、……行くわ」
 どこへ、とも。誰のところへ、とも、言わなかったけれど。
 解っていた。
 遠い遠い、いくら望んでももう二度と会えないところへ――共に戦い、共に生き抜いた存在のところへ、行くのだ。

 あの少年ももう、青年と呼んでもいい年頃になっているのだろうか。 澄んだ、と一言で済ませてしまうには鮮明すぎる、純粋で強い眼差しを覚えている。
 黄金色さえ通り越した深い深い琥珀の色。余計なものなど何もない、真っ直ぐで混じりけのない瞳。
 ヒトではないとか、住む世界が違うとか、そんなこともすべてどうでもよくなってしまうような。 とても傷付きやすい、けれどきっと何度でも立ち直る、鮮やかな魂の持ち主なのだろうと、思った。

 銀色の髪は月の光に似ていた。ぴんと尖った大きな耳と、口元から覗く八重歯が目立っていた。 「半妖」。珍しがられ、憐れまれ、憎まれ追われそして疎まれる存在なのだと、娘の語る言葉から知った。
 まだ、子どもなのに。実際の年齢と見た目の年齢はだいぶ違うと聞かされていてさえ、そう思った。
 乱暴な口調と強引な振舞い、過敏なくらい尖った神経。 父を失い母を亡くし、ひとりで生き続けなければならなかった少年が、身に付けてきた武器は突っ張って生きることだったのだろう。
 けれど。
 アイツったら、バカなのよ。驚いちゃったの、アイツっってば。そうそうこの前、アイツがね――
 彼を語る娘は嬉しそうで、どうしようもなく幸せそうな顔をしていて、 ――彼がどんなに真っ直ぐで、どんなに単純で、どんなに一途で一生懸命で、――強くて、頼りになるのか、よく解った。
 安心して眠れる場所などないのだというその彼が、娘を待つ間に布団で寝入ってしまっているのも。 帰りを待ち切れずに飛び出しては、余計な騒ぎを起こして大喧嘩するのも。
 微笑ましく懐かしくて、どうか幸せでいて欲しいと、願わずにはいられなかった。

 共に在りたいと、願う気持ち。それはよく解っていた。 恋をして、愛を知って、――そんな段階など一気に通り越して、共に在ることだけを願う。そんな気持ち。
 あの少年なら。娘と、あの少年となら。
 その強いつながりを、理解、出来る。

 見上げた青空さえ、娘のところにはつながっていない。けれど。

 想いは、つながるから。時を超え、場所を越えても、共にいた日々はなくならないから。
 ずっと遠く、一緒には見上げられない空の下でも、あの子はきっと笑っているだろう。 共に生きることを望んだ、不器用で優しい少年と、一緒に。

 つながっているから。
 あなたの生きる日々は、あなたの生きる未来に――私たちの今に、つながっているから。

 幸せでありなさい、と、ただそんなことを、思った。

[2010年4月]