沙漠
珍しく今日子の退社が早かったので、夕食を終えてホテルの部屋に落ち着いても、時刻はまだ22時を回っていなかった。
今日子が先にシャワーを浴びた。濡れた髪のまま加賀が浴室から滑り出ると、今日子の方はモバイルを片手に、明日の予定を確認していたらしかった。
くるりと振り向いて、訊いてくる。
「ねえ、加賀くんは何時?」
「空港に10時半」
「じゃあ、7時半ってとこね」
「今日子さんは」
「7時に起きれば余裕だわ」
「そっか」
答えながらちらりと時計を眺めた。今の自分の目には、だったらもう2時間くらいは、という感情がはっきりと滲んでいるだろう。
さりげなくそれを掬い上げて、今日子は笑った。
「もう暫くはのんびりしても大丈夫ね。ちょっと一緒に、呑む?」
「なんかあんの?」
「貰ったの。ラベルデザインを、以前うちで働いてた子が手がけたんですって。それで」
備え付けの冷蔵庫から、すらりとしたワインのボトルを一本、取り出した。受け取った加賀の手のひらに、僅かに冷えた重みが心地いい。
「ちょうどいい温度。手回しいいな」
「本当のこと言うと、呑みたい気分だったから。ちょっと冷やしておいたの」
「赤か……なんかツマミあったっけ?」
「チョコレートなら少し持ってるけど」
「あー、ミックスナッツがあるわ。これ開けるか」
言いながら既に棚から出したグラスを並べている。面倒くさがりな癖に、こういったところのフットワークは自分でも感心するほど軽い。
今日子は小さく笑みを浮かべて待っていた。
「ワイングラスじゃねーけど、構わない?」
「構わないわよ。手のひらの温度を気にするほど高級なワインじゃないわ。もちろん、悪いものじゃないけど」
「カジュアルワイン、て奴か」
「気軽に呑むにはいいわよね」
「あんたみたいに口の肥えてる奴には、却って新鮮なのかもな」
「よく言うわ」
一緒にしてあったオープナーで器用に蓋を開け、ごく無造作にグラスに注ぐ。
ホテルに備え付けてある単純で愛想の無いグラス。それでも、葡萄酒の赤色は照明に映えて美しかった。
「……いくら時間に余裕があるっつっても、」
そのグラスを手に取って、言う。
「なに?」
「こんなときにあんたが酒を持ち出すなんて、珍しいよな」
「そうかしら」
「レースウィークなのに」
「明日までに抜けないほど酔うつもりなの?」
「いや、」
ちょっと笑う。酒には強い方だ。今日子も、加賀も。ワインのボトル1本くらい、なんなく空ける自信がある。その酔いを、明日以降に残さない自信も。
それでも、週末にレースを控えている週には、こんな風に呑むことはなんとなく避けていたのだ。
「偶々今日これを貰ってしまったから、っていうのもあるし」
「あるし、他に?」
「少しね、思い出してしまったから」
何を、と訊く前に今日子は低く歌うように呟いた。耳に馴染んではいるが意味を掴めない独特の抑揚。中国語だ。今日子の持つ特技のひとつ。
「……なんつってたの、今」
「葡萄の美酒 夜光の杯 飲まんと欲すれば 琵琶 馬上に催す、」
言いながらグラスを持ち上げる。赤く波打つ、葡萄の美酒。
「酔うて沙上に臥すも 君笑うこと莫かれ 古来征戦 幾人か回る」
「……七言絶句?」
文字数を拾い上げて呟く。よく知ってるわね、と今日子が笑った。
「王翰の『涼州詞』ね」
「ああ、……昔、読んだことあるわ」
「私が習ったのは、高校の、二年生のときだったかな」
ふいに、遠くを見る目になる。加賀の目にも、今日子が見ている遠い過去が過ぎった。
薄青いセーラー服と、高い位置で括られた髪。真っ直ぐに背筋を伸ばして黒板に向き合っている、力強い眼差しの少女。
その頃の今日子なんて、写真ですら見たこともない癖に。
「どんな詩なのかは先生が説明してくれたし、自分でも読んで理解はした。けど、戦場に出て行く気持ちなんて、ちっとも実感できなかった」
「まあ、そーだよな」
「一緒に酒を酌み交わしているその人も、もしかしたら明日いなくなって、二度と帰って来ないかも知れないんだなんて、そんな切羽詰まった気持ちなんて考えたくもなかったわ」
それが普通だろう。十代半ばにさしかかったばかりの少女のことである。頷いてやろうとして、今日子の目の、柔らかく沈んだ光に気が付いた。
「でもね、今になって解るの。涼州の沙漠は赤い砂の、……砂埃の舞う赤茶けた世界のイメージだったけど、私が今立っているのも、灰色のアスファルトで出来た沙漠なんだって」
「…………」
「帰って来ない人を、何人も見たわ」
それは、加賀も同じだ。観客席に囲まれた戦場。そこに呑み込まれて帰って来なかった人の中には、加賀にとって肉親以上の存在だった、親友の姿も含まれていた。
そして先週、カテゴリこそ違うものの同じモータースポーツの世界で、複数の死者を出す大きな事故が起きたと報じられたのだ。
AOIは参戦していないし、加賀も走ったことはない。けれど、同じ沙漠に立っている――疑いようもなく、つきつけるように明白に。
「――貴方は」
今日子の目が、加賀を射る。緩やかな光を乗せて。
「ちゃんと、帰って来てくれる?」
「……あんたが、呼んでくれるなら」
「嘘吐きね」
そのまま、片手のグラスを加賀のグラスに打ち付ける。妙に乾いた音が響く。まるで沙漠に、いるような。
「呑みましょう。……酔い潰れたって、笑ったりしないでちょうだいね」
「これしきで潰れるよーなタマじゃないでしょーが」
わざとらしい笑いに紛らわせて、杯の中の葡萄酒を呷った。
酌み交わす。何回も。これが最後かも知れないと、頭の片隅で小さく考えながら。
それでも戦場から離れることなど出来やしないと、誰もが深く悟っていながら。
南米生まれの赤いワインは、血のように苦い味がした。
涼州詞
――王翰
葡萄美酒夜光杯
欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場君莫笑
古来征戦幾人回
[2011年10月/RIP D.W.]