回路
「ほい、ラスト一杯。買い置き、もーないぜ」
清々しい湯気の向こうから、彼はそう言った。その声も内容も届いてはいるが、明確な反応は返せない。
もっとも、彼の方もそんなことには慣れている。寝起き30分以内の今日子から、しっかりした返事が戻って来たためしなどないのだから。
今日子の無言を特段気にした様子もなく、彼は陽気な音を立ててカップを置いた。
「会議、11時からっつったっけ」
「ええ……」
「コーヒー、一杯で足りる?」
「……たぶん」
淹れ立ての熱いコーヒーを啜りながら、ぼんやりと呟く。まだ、頭が起きていない。いや、起き始めてはいるが、思考と動作を繋ぐ回路がまともに働いていないのだ。
「色っぽく頼んでくれたらもう一杯は俺の分をお譲りしますよ、女王サマ♪」
「……いらないわ」
端から本気ではないくせに、ちぇっ、と如何にも悔しそうな舌打ちをしてみせて、それから不意に彼は真面目な顔をした。
「あのさ、きょーこサン、」
「……なぁに?」
「だいじょーぶ? 反応が鈍いだけで、もう話は通じてるよな?」
「ええ……たぶん」
返した自分の台詞が、やけにぼぅっとしているのは否定出来ないが。それが認識出来ているのだからよし、というところだろう。
だが、塗ったばかりの口紅が薄くカップの縁を染めていて、ああ、後で塗り直さなくちゃ、などと思う。油断するとすぐに思考が滑るのは、まだ完全には起き切っていないということなのだ。
まだ少し探るような目で数秒彼女を見つめてから、彼は漸く口を開いた。
「じゃあ、訊くけど。……コレ、この前俺来たとき、一緒買いに行ったヤツだよな?」
と、空になったコーヒーの缶を掲げてみせる。日本ではちょっと珍しい、ペルー産のコーヒーだ。
エキゾチックなラベルデザインに惹かれて手に取ったのだったが、味の方も今日子の好みには合っていて、
まずまず満足な買い物だったと思う。そんなことを思い出しながら、今日子は緩慢に頷いた。
「そうね……そうだったわね、たしか……」
やっぱり、と呟いて、彼がほんの少しばかり心配そうな顔になった。それがどうして問題なのか、今日子には解らない。
「まだ10日も経ってねーんだけど、あれから」
「……そうね」
「そーね、じゃなくて」
小さく溜め息を吐いたかと思うと、彼がすいと身を乗り出した。どうしたのかしら、と思うより早く、まだぼんやりしている頭を
わしわしと掻き回される。
「……ちょっと、なにするのよ」
「心配なんですヨ、俺は」
荒らげたつもりの声は相変わらずぼんやりとしたままで、当然彼が怯むはずもなく、頭を撫でる手付きは寧ろ図々しくなった。
「なにいってるの、」
「何杯飲んでるんだよ」
「……え?」
「だから、このコーヒー。減りすぎだっつってんの。何杯飲んでるんだよ、一日に」
「…………」
手の中のカップを見つめて、考え込む。朝はいつも通り、一杯だ。彼がいてもいなくても、この習慣は変わらない。
自宅で夕食を取るときは、食後にもう一杯。就寝前はナイトキャップだから、コーヒーは淹れない。
それ以外でコーヒーを飲む機会と言えば、……持ち帰り仕事を片付けるとき。
あ。わかった。漸く彼の心配顔の理由を呑み込んで、今日子はゆるゆると目を上げた。
呆れ半分、心配半分の顔の彼が、だろうと思ったぜ、などと呟いている。
「働きすぎ。だろ、ここんとこ、ずーっと」
「そんなこと、ない、……わ、よ」
「うそつけ」
頭から離したその手で今日子の額をぴんと弾いて、溜め息。
「今、しまった!ってカオしたクセに。自覚あんだろ、実は」
「…………」
悔しいので黙りこんでみる。
「はい沈黙は肯定。きょーこサンには自覚あり。休みなさい。今月中一切持ち帰り仕事禁止」
「そんな、」
困る。それは困る。やりたい仕事は山のようにあるが、部下たちの手前、今日子がいつまでもオフィスに残っているわけにはいかないのだ。
畢竟、自宅でその一部を片付ける必要がある。
いくら大事な恋人だといえ、いとも簡単に禁止などと言ってのける目の前の男に、今日子は困惑以上の憤りを覚えた。
……まだ、それを表情に出せるほど目が覚め切ってはいなかったが。
「冗談抜きに、あんた、ちょっと頑張りすぎ」
「……今更だわ」
「いまさらじゃねーよ。何度だって言うぞ。俺はあんたが大事なんだってコト、解ってる?」
「…………」
酷い男だ。ここでそんな風に言われたら、反論しにくいことこの上ない。まだ全身が目覚め切っていない、こんな状況では、尚更。
勿論、そんな「こと」は解っている。彼が、今日子の仕事に対するスタンスを理解し支持してくれていることも、
だから、手を抜けとか働くなとか言っている訳ではないということも、解っている。
その彼が、冗談めかしてでもここまで強く言うのだから、恐らく最近の今日子は本当に疲弊し切っているように見えるのだろう。
「それに、ほら、」
思考が沈み込みかけた途端、真剣だった目元をふいにおどけた光に染め変えて、彼が囁く。
「途中で寝られちゃったりすると、ちょっとショックだし。昨夜みたいに」
「……え?」
唐突な発言に、目を瞬く。
「それすら覚えてねーの? ……うわぁ、なんてこった。加賀くん更にショックっ。加えて独りよがりを反省っ」
「ちょっと、待って」
大袈裟に顔を覆う彼を片手で制して、今日子は自分の額に手を当てた。ああ、大丈夫、だいぶ目が覚めてきた。
「途中……じゃ、ないでしょ。昨日は……そのまま、すぐ、寝たわよね?」
えぇ!とそれこそ大袈裟な声を上げて、彼が仰け反る。
「マジかよきょーこさん! じゃ、昨日の×××とか◎◎◎とか☆☆☆ってのは全部、忘れてるワケ!?」
「ちょ、こんな時間から何言ってるのよ! ……してないでしょ、そんなこと?」
「うーわーぁ……」
へなりとテーブルに突っ伏して、彼は呻いた。
「そーか……そーだったのか……あんた、本っ当に頭とカラダが別々なんだな……」
「なっ」
なんてこと言うの!
まともに働き出した頭は一瞬で彼の言いたいことを呑み込んで、火のように反論しかけたが、……今度は理性で、止めた。
彼は別に、悪意があって言っているのではないのだし。確かに昨夜は、……自分が悪かった、ようだし。
「……だいぶ、目ぇ、覚めてきた?」
目線を落として黙り込んだ彼女に反省の色を見てとってか、さっきまでの落ち込みなどさっぱり忘れたような様子で、突然彼が笑いかけた。
「ええ、そうね。一杯で足りてよかったわ」
応じた今日子も、さっきまでの動揺などすっかり忘れたように笑う。その笑い方をまじまじと見つめて、彼は不思議そうに息を吐いた。
「さっきまでと、同じきょーこサンなんだよなぁ」
「当たり前じゃない」
「コーヒーひとつで、すっかり別人」
「同一人物よ。話はちゃんと、通じてたでしょ?」
「ん、そーなんだけど」
「頭はちゃんと動いてるのよ。ただ、身体との回路がうまく繋がってないだけで」
「……ふーん」
ちょっと考え込む顔をして、それからきゅっと目を上げる。
「じゃあさ、」
「何?」
「昨夜も、カラダはちゃんと感じてて、頭との回路が繋がってなかっただけってこと?」
「ば、」
今度は理性でも止め切れなくて、思わず非難がましく口走る。
「ばか、何蒸し返してるのよ、」
「だって」
子供のように拗ねた目をして、彼はちょっとそっぽを向いた。
「全然感じてくれてなかったら、……やっぱ、落ち込むだろ」
「……ほんと、馬鹿ね」
呆れたはずなのに、何故だかちょっと彼が愛おしくなってしまって、今日子は思わず目を細めた。
普段は気にもしない。頭と身体を繋ぐ回路。
それでも、一杯のコーヒーがないと寝起きから抜け出せないように、スイッチが必要なときがある。
彼が今気にしている、カラダと頭を繋ぐ回路のスイッチは、――多分、そこでやきもきしている彼自身なのだ。
「ま、昨夜は足りなかったってことみたいだから、」
「ん?」
「今夜は、もうちょっと多めに、ね」
仕返しとばかりに頭を撫でて、澄ました顔で席を立つ。ああ、大丈夫、しっかり目は覚めている。
数秒、ぽかんと目を見開いていた彼が、慌てて立ち上がる音が聞こえた。振り向かずにちょっと笑う。
「じゃ、行ってくるわ。20時までには戻ると思うから、好きにしてて」
「……きょーこさんっ、」
「何?」
振り向いた視線の先で、悪戯っぽく目を輝かせた彼が言う。
「ほどほどで帰って来てねv」
「……眠そうだったら、コーヒーでも淹れて頂戴」
受け止めた彼女の目もまた、同じようにくすりと、光った。
[09年8月]