長い、間違い 10


「……残酷なのはどっちだよ、」
「っさいわね、調子に乗ってんじゃねーっつーのよぉ!」
 強く睨めつけた筈のその瞳は潤んで、切った啖呵もどこか甘ったるく蕩けて聞こえる。
「あー、もー、わかってますって、調子に乗ってなんかいませんよーっと……頼むよきょーこさん、もーちっとしっかり歩いてくれよ……」
 結局、繰り返されるいつも通りの光景。 酔い潰れた今日子のお守りは加賀専任、と周囲の誰もが思っているらしく、労いと労りの言葉だけは散々もらったものの、誰からも手を貸してはもらえなかった。
 くっそ薄情者め!と大袈裟に喚き散らしてはおいたが、正直、周りがさっさと帰ってしまったのは有り難い。 一刻も早く、ご褒美にありつきたい。長い長い「おあずけ」のフィナーレ。そればっかり考えている。
 一ヶ月も会っていなかったのだ。あれ以来、触れていないのだ。やっと、堂々と抱き締められる日が来たっていうのに、――肝心の彼女がこの様か。 半端に押し付けられる胸元の柔らかさがまた恨めしい。
「うぅ……暑いじゃないのぉ……」
「はいはい。今だけだから我慢してなー」
 引きずるようにしてエレベータに乗せ、12階の表示を押す。彼女のオフィスにちゃんとコートがあればいいが、なければまた別の心当たりまで探索の旅だ。 無駄足自体は諦めるにしても、彼女を抱えたままというのがなんとも。柔らかな感触、花の香り、全く、どっちが残酷だよ。
 緩い加速を感じながら、深く深く溜め息を吐いた。 浮き足立って、普段ほど酔えなかった加賀とは対照的に、今日子の方はいつも通りに堂々とそして平然と、勧められる盃を次から次へ乾していた。 酔いが回れば回るほど艶めかしく、無防備になって行くようにみえる女王様に――そしてそれを見て鼻の下を長くしている男どもに――気が気でないまま忽ち2時間、 挙げ句に、いつもの通りのこの有り様。あああ、もう、いっそこの場で押し倒してしまいたい。
(……なんて、できっこねぇ、ケドなぁ)
 溜め息の終わりが苦笑いに変わる。結局まだ、加賀は臆病者のままなのだ。嫌われたくないし、失いたくない。気持ちが通じ合った今なら、尚更。
 だから早く確かめたいのだ。一刻も早く、「よし」と言って欲しいのだ。しかしまだまだ、先は長そうな様子で。 扉の開く音に紛れて盛大に溜め息を吐く。が、顔を上げた途端、その溜め息が感嘆の吐息に変わった。
 オフィスの扉は、開け放たれていた。エレベーターホールを挟んだ真正面、開いたままの両扉、深い絨毯、書類を山と積んだデスク、その向こう側の、大きな窓。
 色とりどりの光が溢れていた。オフィスビルの壁に描かれたツリー、駅前広場を流れる星。見慣れた街の、見慣れない顔。 ああ、そうか。今夜はまだ、クリスマスなのだ。
「素敵な眺めでしょう?」
「――!」
 肩からふっと重みが消えた。驚いて振り返れば、涼しい顔で今日子が笑う。すらりとまっすぐ伸びた背筋。完全に素面の立ち姿で。
「クリスマスにまでお仕事に励む、可哀想なワーカホリックだけに許された特権――だったのだけどね。でもいいわ、特別に許してあげる。 気が済むまで好きなだけ眺めて?」
「……おい、きょーこさん……」
 くすくす笑いながらオフィスへと踏み込む姿は、どう見ても酔っ払いのそれではなくて。
 ということは、――いうことは!
「酔ったフリしてただけなのかよ……!」
「ご明察」
 思わず頭を抱えた加賀に彼の口調を真似て答えて、それからまたもくすくす笑う。
「すぐにバレるだろうと思ってたのに、案外そうでもなかったわね。鈍ったんじゃないの、加賀くん?」
「……しょーがねーだろ、」
 あんたの妄想で頭いっぱいだったんだから。
 とは言えなくて、肝心のところはもごもごと言葉を濁して呑み込む。
「……なんでわざわざ、こんな真似?」
「だって」
 ちょっとだけ焦らすみたいに口を噤んで、それから。
「そしたら皆、さっさと帰ってくれるかな、って、思って」
「…………」
 背けていた顔をすごい勢いで元に戻した。灯りを点けない室内でも、はっきりと判る頬の色。いつもより随分と赤く見えるそれは、もしかすると酒の所為ではなくて、
「…照れ、てる?」
「調子に乗るなって言ってるでしょ」
 やっぱり照れてる口調で、それでもぴしゃりと返される。嬉しくって頬が緩んだ。
「……ダメだわ俺、やっぱ死にそう」
「ばか言って、」
 まだ何か言いかえしたいらしい彼女を、取り敢えず抱き締めて黙らせた。あー、これこれ、この感じ。この温度、この柔らかさ。 まだほんの数えるほどしか触れていないのに、既にすっかり馴染んでしまった今日子の感触。いつの間にやら居ついてしまった、この部屋と同じように。
「ちょっと、加賀くん、」
「……いーじゃねーかこれっくらい。せっかく皆、さっさと帰ってくれたんだし?」
 彼女の台詞を引いて言い包める。
「クリスマスなんだからさ、――ちっとくらい、調子乗ったって」
 いいだろ。と、わざと耳元で囁く。息の熱さが、伝わるように。
 ――少しの間、彼女は無言だった。子どものように睨み付けながら、バカ、と言いかけた唇を、待ちかねたように唇で塞ぐ。
 今度は彼女も、怒らなかった。緩やかに目を閉じて、眉から静かに力を抜いて、ただ雨に打たれるみたいにしてそれを、受ける。 長く。確かめるみたいに、強く、深く、丹念に体温を合わせて。感覚が痺れはじめたくらいに漸く、唇が離れる。
「――これで、」
 ぼうっと潤んだ瞳を覗き込んで、にやりと笑ってやる。
「めでたく、契約成立だな。――ハンコもちゃんと、もらったし」
 唇に移った口紅の跡を指でなぞれば、彼女ははっとしたように自分の口元に手をやった。慌てた仕草が可愛くて、見惚れかけた自分が可笑しくて。 こみあげた笑いを口に含んだまま、続ける。
「カンペキに、俺は、あんたのもんだ。……そうだよな、“オーナー”?」
「――条件の確認をしてないわ」
 不満そうに、唇を押さえたまま彼女が答える。
「いきなり判だけ取ってくなんて、いい加減にも程があるわよ」
「なんだよ、厳しーなぁ」
「当たり前でしょ、貴方が相手なんだから」
 様々な前科が脳裏を過ぎり、思わず、見つめあったまま噴き出した。
「そりゃまあ確かに、ごもっともだ」
「でしょう?」
 口元の笑いを収めないまま、加賀の鼻先にぴしりと指を突き付ける。
「ひとつ! 必ず、来季もAOIで走ること」
「異議なーし」
 両手を挙げて賛成する。そもそも、今日子との間の蟠りこそが最大の要因だったのだ。それが解消された今、AOIから離れる理由は最早ない。
「ふたつ! あまり調子に乗らないこと」
 人前で余計なことしたりしたら引っ叩くわよ、と続いた台詞に、思わず笑う。
「有言実行だろーな、絶対」
 思えばほんの数時間前にも、派手な平手打ちを喰らっている。照れ隠しの部分があるにしたって、彼女のことだ、きっと言った通りに実行することだろう。
「当たり前でしょ」
「おー怖い怖い。……な、俺からも条件、確認させてもらっていいんだろ」
「何?」
 ちょっと意外そうに今日子は瞬きをする。その瞳を見据えて、加賀は言った。
「ひとつ。なるべくたくさん、アンタの声、聴かせて」
「え?」
「ちゃんと慣れとかねーと俺、……インカムで名前呼ばれたりしたらたぶん、マトモな頭じゃ走れねーよ」
 一瞬呑み込めないという顔をして、――それから今日子は赤面した。紅潮した頬を幾分俯けて、答える。
「……わかった。人前じゃないときなら、いいわ」
「例えば?」
「……よ、」
 夜とか、と、平然を装いたかったらしい続きの語尾が微かに熱を孕んでいる。ああもう、可愛い意地っ張りめ、そんな顔されたら余計、この場で押し倒したくなるじゃねーか。 喚く本能を受け流して、加賀は笑った。
「ん、よろしく。――毎晩な?」
「…調子に乗ると、怒るってば」
「わーかってますって! ……あとさ、きょーこさん。もう一個条件、付けさせてくれる?」
 挑むような目になって、彼女は傲然と胸を張る。
「いいわ、言って御覧なさいよ。何?」
「――来季も、なんて言わないでさ。次が終わっても、アンタの近くにいさせてくれよ。……その先も、ずっと」
 ずっと。曖昧であやふやで甘い、けれども強い、願いの言葉。
「ずっとって、」
 言おうとする彼女を遮って、答えた。
「まあざっと、50年くらい?」
「……!」
 目を見開いた彼女に、不敵な笑いを投げて。
「そんだけかけりゃ、サスガのあんたも落ちんだろ?」
「…さあ、どうかしらね、」
 一瞬の絶句をすぐに乗り越えて、彼女もまたにやりと笑い。
「体力が持つよう頑張ることね、加賀くん?」
 ふてぶてしく、そう言い放ってみせた。――ああもうまったく、女王様ときたら!
「婆さんになっても手強いんだろうなぁ、アンタって……」
「当たり前よ」
 天を仰いで苦笑する加賀に、含み笑いの返事を寄越し、それから件の女王様は、彼の肩へと手を掛けた。
「――それじゃ、決まりね。覚悟はよくて?」
「もちろんですよ、女王様」

 誓いじゃなくて、シビアな契約の口付けを。

 終わりかけた聖夜の、ありふれたイルミネーションを遠く眺めながら。

 二人は目を合わせて、笑った。


終わり!



[2014年12月]